草鹿式


草鹿式
(くさじししき)
小笠原流歩射
鎌倉宮的場

2007.05.05

2012.05.05草鹿式


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<鎌倉宮の神事草鹿式の取材>
 五月五日午後一時より、鎌倉宮祓所にて宮司以下三名の神職によるお祓い、本宮にて神事、そして宮司を先頭に弓馬術礼法小笠原流の諸役、射手が的場へ、さらに的場のお祓いをしてより、射手は、前弓(まえゆみ)・後弓(あとゆみ)の2組に分かれた。各組ごとに「繰り立ち」にて平射手が各々二本の矢を順番に射った。途中、的奉行と射手による問答が行われ、的中しただけでは当りとされず、作法が的確に行われたか射手の体配をも見る、また弦音や矢飛びの状態、射手が申告する的中の有無や的中箇所などを問答し、総合的に的奉行が判断して認めたものが当りとされる。
 従って、的奉行の主観に左右されないよう、対戦相手の大将から物言いがつくなど、能の狂言ではないが、そのひとコマを見る様でもあり、なかなか奥深い行事に思えた。
 今回は、平射手での勝敗がつかなかったため、
大将戦が行われ、各大将が一手(ひとて)ずつ交互に射った。
大将の的中の場合は二本として数え、合計的中数を競い、
結果「前弓」の大将が的中し、勝ちを手にし宮司より勝組大将に「菖蒲の花」の褒美が授与され、弓馬術礼法小笠原流による「草鹿式」の行事は終了した。

下記の「草鹿式」の解説文は、小笠原流鎌倉古式弓道保存会の会員である落合一之氏の解説文を引用しています。
<草鹿のおこり>
源頼朝が富士の巻狩を行った際に家来が獲物をたびたび外すので、家臣に何故なのか聞いたところ、武田小笠原の面々にお聞き下さいと答えました。そこで、武田小笠原を召して尋ねたところ、両家は相談の上、草を集めて鹿のかたちを作り稽古させました。これが草鹿の起こりと言われています。

このことから、元々は歩射と騎射で稽古のために行ったものでしたが、その後、歩射の行事として残ったもののようです。

吾妻鏡によると、1192年 (建久3年 壬子)8月9日(己酉)巳の刻に男子(後の源実朝)が出生し、同月20日(庚申)、将軍家御産所において、両親が健在の6名の射手を召して草鹿の勝負が有ったことが記述されています。
   一番 梶原左衛門尉景季   比企彌四郎時員
   二番 三浦兵衛尉義村    同太郎
   三番 千葉兵衛尉常秀    梶原兵衛尉朝景(刑部の丞の子)

また、1237年(嘉禎三年 丁酉)7月19日(甲午)には、8月の放生会で北條五郎時頼が流鏑馬を射る(16日)ので、初めて鶴岡の馬場で行うのにあたり、北條泰時がサポート役で来て海野左衛門尉幸氏を招いて詳細を語り、また佐藤兵衛尉憲清入道〈西行〉が流鏑馬の矢を挟むことについて意見を述べ、下河邊行平、工藤景光、兩庄司、和田義盛、望月重隆、藤澤清親、三金吾、并諏方大夫盛隆、愛甲三郎季隆などが感心したことから弓談義になり、流鏑馬、笠懸などの故実を論じながら、草鹿の話にも及んだと記されています。
錚々たるメンバーで、どんな弓馬の話が出たのか、興味深いところです。
<草鹿式とは>

現在行われている草鹿式は、的場や作法は三々九手挟式とほぼ同じですが、元来は競技です。

射手の体配、弦音や矢飛び、的中有無、的中した後の矢の落ち着き所、および的中してから矢が落ち着くまでの経緯といった点を総合的に判断して、奉行が的中と認めたものが「当たり」となります。判断に当たっては、古式ゆかしい「候詞(そうろうことば)」で奉行と射手との間に問答が行われ、射手が的中箇所を間違えて答えたり、作法にのっとった問答ができないと「外れ」と判断されます。武士の威信を懸けて競技に臨み、奉行と問答を行い、的中を争います。

<的>

草ではありませんが詰め物をして鞣革で被った鹿の形をした的を使用し、的には大小24個の白い星があります。
  中央の大きな星は「定め」と呼び、直径三寸(約9p)です。
  定めの四隅のやや大きな星の直径は二寸、他は一寸です。
的の大きさは次のように定められています。胴の幅は星の大きさから自ずと決まるということか定めがありませんが、ほぼ一尺(約30p)といったところです。
  長さ     一尺八寸(約54.5p);胴の長さ
  立さま    八寸五分(約25.8p);脚の長さ
  項の長さ  七寸五分(約22.7p);頭の長さ
  つらの長さ 三寸五分(約10.6p);顔の長さ

的の各部位には名称が付いており、奉行と射手との問答のなかで射手は的中箇所を名称で答え、奉行は矢見に確認して合否の判断を下します。
的には脚のあるもの(立鹿;たちじか)と脚のないもの(居鹿;いじか)があり、脚のないものは脚が草に隠れた形と言われていますが、実際には脚を折った形です。
立鹿が牡鹿、居鹿が牝鹿の形をしていますので、角も脚もない牝鹿の方が的の大きさは小さいことになります。
鎌倉古式弓道保存会では写真左の立鹿を使っています。

<的までの距離>
弓立所と的皮までの距離は11杖(つえ;並寸の張り弓の長さ 2.21m)、的皮の1杖半前に的を立てるので、射手から的までは9杖半(約21.5m)ということになります。
本来は、鹿の後ろには山があるものということで?(あづち)を背にして的を立てるものだそうですが、執行に際して?を作ることが困難ですので、現在は的皮(写真の青い布)を用いています。

<弓>

白木弓、白弦とされていますが、塗弓でも良いようです。

<矢>

的矢を使うと的に刺さって痛めるので、四目鏑(四つ穴のあいている鏑矢)または神頭矢を用います。

<繰り立ち>
前弓・後弓の射手は同数ですが、大将射手を除いて三名以下の場合には前弓・後弓の射手が一人ずつ弓を引きます。
四名以上の場合には、前弓の射手全員が射蓆に立ち、先頭の射手が弓を引き、引き終わると最後尾に付く「繰り立ち」という作法を行います。

<数塚>
的中した矢の数を数塚に串を立てることで示します。串を立てるにも作法があり、所作を誤ると奉行から「体配違いにて捨て申し候。射手おこう」と言われ、せっかくの的中が無になりますので、射手は引き終わっても緊張をゆるめることはできません。

前弓と後弓では足捌きが逆になり、数塚の中央に弓を添えて甲矢(はや;一本目)は弦の手前、乙矢(おとや;二本目)は弦を超えて向こう、と立てる位置が異なります。

大将は一本の的中が二本と数えられますが、大将も一手(ひとて;二本)しか引きませんので、大将戦が始まる前に五本の差が付くと勝負が決し、大将戦は行われません。
平射手(ひらいて;大将以外の射手)の的中数によって、後弓の判定に大将戦が行われるような的奉行の個人的采配が働かないように、両大将は注視する必要があるかもしれません。

<問答>
的奉行は、武士の面目を重んじ、弓矢の面目に懸けて誤りのない判断を行うという意味で、開始に先立って天地神明に誓いの詞を述べます。
   「御勝負の的にて候、殊(こと)に親疎あるまじく候、見落としは
   御不運にて候、ご不審もあろうずる間、誓言を立て申すべく候。
   弓矢八幡、わけても○○のご祭神もご照覧あれ。親疎あるまじく候」

射手が弓射を行う間、的奉行は射手の作法、射候、射術をじっと見守り、疎漏のないことを確認します。矢見は的を見守り、的中箇所、的中後の矢の飛び様、落ち様を確認します。

射手が体配式法を乱さず、矢が定めに的中した場合には、采(ざい)が上がり的中となります。

奉行が射手に何らかの確認を行いたい場合は、「控えよ」と声を掛けます。射手は甲矢(はや;一本目)のときはそのまま、乙矢(おとや;二本目)のときは脱いでいた肌を入れて控えます。

奉行から良い矢であることを確認され、間違いなく良い矢である旨の誓いの詞を述べて的中にされることもありますが、矢所を聞かれて的中箇所を答え、誤ると「矢所違いにて捨て申し候」と外れにされることもあります。
中らなくても、矢音良く聞こえ、弦音高く、体配式法を乱さず。すべて揃って見どころがあったと奉行が認めた場合にも、中りとされる場合があります。

また、的中したのに采も揚がらず、奉行から声も掛からず矢取りが矢を拾いに出向こうとしたとき、射手は「矢なとりそ」と声を掛けて矢取りを押しとどめ、的奉行を呼び出して判断理由を問い、反論することが許されています。

草鹿には、的中後の矢の落ち所、落ちるまでの経緯、矢の落ち方など、非常に詳細な判定の規定があり、奉行と射手、奉行の判定に不服を申し立てる味方や相手方の大将との間で問答が繰り広げられます。

一方で、的奉行と射手とは毎度問答をするものだが、あまりに強いて奉行に論じかかることをしてはならないとされ、最終的な是非は的奉行に任せ、たとえ的奉行に違いがあっても射手として指南したり異論を差し挟んだりしない、とされています。


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