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光明寺
(てんしょうざん こうみょうじ)

浄土宗   天照山蓮華院光明寺    創建  寛元元年(1243年)   開山 然阿良忠上人

本尊  阿弥陀如来

かまくら子ども風土記(上巻)P185〜P188
  光明寺  
     補陀洛寺からバス通りに出て、逗子の方向へ行くと、やがて左手に大きな山門が見えてきます。ここは建長寺、円覚寺、遊行寺(藤沢)とならんで鎌倉四大寺の一つといわれる、天照山という山号の光明寺です。
   入ってまず目につくことは「関東総本山」と刻まれた太い石の柱です。光明寺は浄土宗の寺ですが、後土御門天皇が明応四年(1495年)、八代目の観誉裕崇上人が高徳なのに感心して、浄土宗の関東総本山と定めたものです。なお徳川家康が関東十八壇林(関東地方に浄土宗の学問所として十八ヶ所の寺があった)を決めるとき、芝の増上寺が首席に、光明寺は次席に選ばれました。
   総門を入ると鶴岡八幡宮から移したという大きな山門に、後花園天皇が書いたという「天照山」の額があります。
  その奥の本堂の屋根の美しさ、小堀遠州の作と伝える蓮で知られる池のある庭園などにも、この寺の持つ伝統をしのぶことができます。
  本堂の手前わきには、裏山のやぐらにあった正中二年(1325年)の石の地蔵と板碑などがあり、その奥には最近作られた石庭があります。
  光明寺の開基は、第四代の執権北条経時です。仁治元年(1240年)経時は佐助ガ谷に蓮華寺を建て、日ごろその徳を慕っていた然阿良忠上人を迎えて開山としました。蓮華寺は別に悟真寺とも呼ばれました。寛元元年(1243年)現在の地に移って光明寺と改められたのです。経時がなくなった後も、時頼をはじめ代々の執権は光明寺を敬い、建物もだんだんりっぱになっていきました。
  良忠上人は石見の国(島根県)三隅の人で、記主禅師とも呼ばれ、法然上人の弟子の聖光上人から教えを受けました。良忠上人は、諸国をまわって鎌倉に来ました。上人が当時政治の中心であった鎌倉に住んだことは、浄土宗を関東から東北地方にかけてさかんに広めることになりました。上人は大へん徳が高く、学問の深い人で、たくさんの本を著したので弘安十年(1287年)七月六日、八十九歳で世を去って伏見天皇から「記主禅師」の名を賜ったのだということです。その墓は、境内東北の山の上の第一中学校の裏に、北条経時の墓などといっしょにあります。
   阿弥陀如来をまつった本堂の脇殿に善導大師の木像がまつってあります。善導大師というのは唐の国の高僧で、浄土宗の開祖であり、法然上人が厚く信頼していた人です。この木像については、次のような話が伝えられています。
   良忠上人は聖光上人から善導大師の木像を譲られました。けれども諸国をまわるのに大そう持ちにくいので、この木像を筑後川に流したところ、それが海に漂流して由比ガ浜に打ち上げられたのだというのです。木像には金泥でお経が書いてありましたが、今ではすり減って見えなくなってしまいました。
  また、本堂の右わきにまつってある弁財天にも同じような話が伝わっています。
  この弁財天はもと江の島の奥の院にまつってありましたが、天文年間(1532年〜1555年)に大あらしがあって海に流され、光明寺に近い浜べに打ち上げられました。一たんは江の島にもどしたのですが、善導大師から直接念仏のことを聞きたいというお告げがたびたびありましたので、とうとう光明寺に迎え、二尊堂を造ってここに二つの木像をまつりました。二尊堂は関東大震災で倒れてしまいました。光明寺には国宝の当麻曼荼羅縁起絵巻を始め、すぐれた絵画がありますが、いずれも国宝館に寄託されています。
  光明寺の行事で有名なのはお十夜です。お十夜というのは、もともとは毎年十月六日から十五日までの十日間行われる浄土宗の法要でした。後花園天皇の永享年間(1429年〜1440年)、平貞国という人が京都の真如堂にこもって十日間念仏を勤めたことから始まったのだそうです。
  光明寺の「十夜法要」は八代の観誉裕崇上人が後土御門天皇の勅命により明応四年(1495年)清涼殿において引声阿弥陀経、引声念仏による法要を勤修したことにより、光明寺でもゆるされ、昔からの儀式を伝えて行われています。
  光明寺のお十夜は十月十二日から十五日までの間念仏を勤めることになっています。その間、光明寺境内は近郷から集まってくる人々の群れでにぎわいます。また道ばたにずらりと並ぶ植木の市はお十夜名物の一つになっています。 
 
         

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