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浄光明寺は、JR鎌倉駅西口(江ノ電駅側)通称裏駅から歩いて15分、駅を出たら鎌倉市役所方面へ直進、紀ノ国屋が見える市役所前という最初の交差点を右に入る、この路を今小路といい若宮大路の西側に並行した道となっています。途中、寿福寺を過ぎ英勝寺手前のJRの踏切を渡り、しばらくするとT路になります。そこを右に進んだ左側に浄光明寺の参道が現れます。参道は距離のわりには奥まって感じられます。もとは英勝寺の惣門であった山門は優しく落ち着いた造りになっています。
浄光明寺は、皇室の菩提寺として知られる京都東山の泉涌寺の末寺として準別格本山の寺格が与えられています。創建は建長三年(1251年)頃で、開山は真阿和尚(真聖国師)、開基は北条時頼
(第五代執権)と北条長時(第六代執権)と伝えられます。鎌倉時代及びその後も時の権力者を通じて寺勢を保ち、度重なる火災や震災を経ながら、現在まで法統を伝えてきました。特に足利氏との関係が深く、足利尊氏・直義の帰依を受けました。
また、室町時代には鎌倉公方の保護を受け、足利基氏・氏満の分骨を祀るなど、最盛期を迎えます。鎌倉御所が滅亡したころは他寺と同様に勢いは衰えましたが、北条長時より始まる赤橋流北条氏の菩提寺として鎌倉幕府の終焉を見届け、室町幕府誕生のきっかけとなった足利尊氏の決起を見守った寺なのです。
浄光明寺は、浄土・真言・華厳・律・天台・禅等諸宗の兼学道場として、当時の仏教教学研究の中心的寺院の一つであり、武家の精神修養や、学問・教養の取得の場ともなり、重要な文化的諸要素の醸成の場となった寺院でもあります。
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宗派 |
真言宗泉涌寺派準別格本山 |
山号 |
泉谷山(せんこくざん) |
寺号 |
浄光明寺 (じょうこうみょうじ) |
創建 |
建長三年 (1251) |
開山 |
真阿 (しんあ) (真聖国師 しんしょうこくし) |
開基 |
北条時頼(第五代執権)
北条長時(第六代執権) |
本尊 |
阿弥陀如来 |
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みどころ・・・・・
境内に入りお参りを済ませたら少し下がって本堂と背景の景色を見てみましょう。
重要な寺院を配置する鎌倉幕府の意図
鶴岡八幡宮から北西約0.5㎞、仮粧坂の東約0.5㎞、亀ヶ谷坂の南南東約0.3㎞に位置する浄光明寺は、鎌倉の北西を開析する扇ガ谷の一画にあたり、鎌倉の交通上及び防御上の最も重要な地域に営まれた寺院であり、切通の近辺に重要な寺院を配置する鎌倉幕府の意図が現れています。
現在の境内も、山稜部の裾を切り落として造成した切岸(写真にその一部)がよくその状況をとどめており、谷戸を開発し内部に伽藍を配する鎌倉の社寺景観の特長をよく示しています。
鎌倉幕府滅亡直後の1333~1335年頃に描かれた『浄光明寺敷地絵図』によれば、狭隘(きょうあい)な谷を造成した中に諸伽藍が、その外側には第16代執権北条守時など北条氏関係の館跡等が描かれており、北条氏の屋敷地内あるいはその近隣で行った寺院造営の状況がよく解ります。
山門をくぐると左側に「楊貴妃観音」、世界三大美女の一人といわれ中国の唐の時代、玄宗皇帝の妃でしたが「安史の乱」で亡くなり後に、玄宗皇帝は妃の姿を観音像に刻ませたと伝えられています。500年後、湛海律師がそれを日本に持ち帰り京都の泉涌寺に納め「楊貴妃観音」として広く信仰され、平成13年(2001年)にはそれを石に刻んで泉涌寺の末寺である浄光明寺へまつりました。
建物は客殿と庫裏、右側に不動堂・鐘楼その上の方には稲荷社の鳥居が見えます。
客殿には、元寇の時に元の降伏を祈祷したという伝承が残る
「木造愛染明王像」がまつられています。(非公開)
不動堂には、木造彩色不動明王坐像(八阪不動)が安置されています。平安時代京都の八阪の塔が傾いてしまった時、浄蔵貴所という僧が本尊に祈り、元に戻したという伝承から八阪不動明王と呼ばれています。しかし、像の様式は中世のものであり、伝承は後から付加されたものと思われます。(浄光明寺略記より)
(毎年大晦日の除夜の鐘の最中のみ公開)
本堂、境内の奥の石階段を上ると頼朝の建てた永福寺から移されたと伝わる本堂(浄光明寺仏殿)かつては本尊阿弥陀三尊像を安置していたことから阿弥陀堂と呼ばれています。現在の本堂は寛文八年(1668年)に再興されたもので本堂の中には、応仁二年
(1468年)銘の須弥壇があり、阿弥陀・釈迦・弥勒の過去・現在・未来を表す三世仏を安置しています。
収蔵庫は本堂横にあり北条長時の孫である久時によって造像された本尊、木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像、 阿弥陀如来像は正安元年(1299年)の作。阿弥陀如来像は胸前に両手を挙げる説法印を結び、宝冠をいただく。肩、袖、脚部などに見られる浮き彫り状の装飾は「土紋」と称されます。鎌倉地方の仏像に特有の技法で、土を型抜きして花などの文様を表したものを貼り付けたものです。
「土紋」と呼ばれる装飾技法が用いられた仏像としては最古のものです。両脇侍像(観世音菩薩・勢至菩薩)は、結跏趺坐(座禅の形)ではなく足をくずして坐り、中尊の方に頭部をわずかに傾けています。両脇侍像の写実的な衣文表現や、生身の人間のような面相表現には中尊以上に顕著な宋風美術の特徴もみられます。
木造 地蔵菩薩立像(矢拾地蔵)
通称を矢拾い地蔵という。足利直義が護良親王の鎮魂のために建立した慈恩院の旧像と伝え、矢が尽きた直義をこの地蔵が救ったとの伝説があります。鎌倉時代から南北朝時代の地蔵菩薩の秀作の一つです。
境内背後の山稜部は、北へ向かって三段の平場が造成されていて、阿弥陀堂や歴代住持等の墓地及び多くのやぐらが営まれており、標高約40mの最上段付近には、冷泉為相墓があります。
冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓
十四世紀の歌人で藤原定家の孫で父の死後、所領などの相続をめぐって異母兄の為氏と争い、為相の母である阿仏尼(「十六夜日記」の作者)も為相も下向し、たびたび幕府に訴えたすえ勝訴し
ている。鎌倉では、歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献し、また娘の一人は鎌倉幕府八代将軍である久明親王に嫁ぎ久良親王を儲けている。こうしたことから為相は晩年を鎌倉で過ごし将軍を補佐し同地で薨去(こうきょ)しました。
石造 地蔵菩薩坐像(綱引地蔵)
裏山のやぐらの中にまつられる鎌倉屈指の石仏で、由比ヶ浜の漁師の網にかかり海から引き上げられたとの伝承から「網引地蔵」と呼ばれます。背中の銘文に「正和二年」(1313年)浄光明寺第三世長老性仙和尚が供養したことが刻まれています。
石造 浄光明寺五輪塔(覚賢塔)
冷泉為相墓の東北方にある。内部から嘉元4年(1306年)の銘のある蔵骨器が発見されました。塔の所在地は、忍性が開いた多宝寺の址であり、この塔は多宝寺長老覚賢の墓塔として建てられたものです。(毎年4月鎌倉まつり期間中のみ公開しています。)
大伴神主家墓所
大伴家は鎌倉時代以来明治維新に至るまで鶴岡八幡宮の神主を代々努め、その墓は室町時代の文明年間以降、当寺に営まれるようになりました。墓所には鳥居を浮き彫りにした江戸時代の笏型墓碑が3基あり、神道特有の墓として貴重なものです。
(浄光明寺略記より)
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寺宝 |
◇木造阿弥陀如来及両脇侍坐像
(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)
(国重要文化財鎌倉時代)
◇石造浄光明寺五輪塔(覚賢塔)
(国重要文化財鎌倉時代)
◇紙本墨書 浄光明寺敷地絵図
(国重要文化財南北朝時代)
◇冷泉為相墓(国史跡)
木造彩色地蔵菩薩立像(矢拾地蔵)
(県重要文化財鎌倉時代)
◇愛染明王坐像
(市重要文化財南北朝時代)
◇石造地蔵菩薩坐像(綱引地蔵)
(市重要文化財鎌倉時代)
◇絹本着色僧形八幡神像
絹本着色弘法大師像
この2幅で(互いの御影)
(市重要文化財南北朝時代)
◇木造浄光明寺阿弥陀堂(仏殿)
(市重要文化財江戸時代)
◇木造浄光明寺山門
(市重要文化財江戸時代)
◇紙本墨書浄光明寺文書(三十一通)
(市重要文化財)
◇大伴神主家墓所(市史跡)
◇市天然記念物 マキ・ビャクシン
そのほか、不動明王坐像・三千仏画像・
真聖国師像・冷泉為相像など多数。 |
住所 |
鎌倉市扇ヶ谷2-12-1 |
電話 |
0467-22-1359 |
交通 |
鎌倉駅西口より徒歩15分 |
拝観日
拝観時間 |
本尊阿弥陀三尊像拝観のご案内
拝観日は、木・土・日曜日・祝日。
雨天多湿の日は拝観中止になります。
8月および年末年始は拝観中止。
10時~正午迄。13時より16時迄。 |
拝観料 |
境内志納
本尊阿弥陀三尊像・収蔵庫拝観は200円
(小中学生は100円) |
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上記、時間や金額は変更・改定があります。 |
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地図 |
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札所 |
鎌倉地蔵菩薩霊場廿四ヶ所 第十六番綱引地蔵菩薩
第十七番矢拾地蔵菩薩
鎌倉観音霊場三十三ヶ所 第廿五番千手観音菩薩
東国新四国霊場八十八ヶ所 第八十二番千手観音菩薩
相模国弘法大師霊場廿一ヶ所 第六番 弘法大師
鎌倉十三仏霊場 第九番 姿勢菩薩
浄光明寺は 「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録資産の価値を示す重要な要素の一つになっています。 |
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