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本覚寺
(ほんがくじ)

日蓮宗   妙厳山本覚寺  創建 永享八年(1436年) 開山  日出上人  


本尊  釈迦三尊

かまくら子ども風土記(上巻)P84〜P85
  本覚寺   
     駅から若宮通りに出ると鎌倉郵便局がありますが、その横を東に進むと、すぐ右側に本覚寺があります。この寺は日朝さまという名で親しまれています。 本堂は大正十二年(1923年)に新しく建て直したものです。
   寺を建てた人は一乗院日出上人です。この人は学者で、後に日蓮宗の坊さんになりました。初め生地の静岡県三島で自分がいろいろな迫害や苦労に耐えられるかためすために、三週間も水を浴びて修行しました。三週間たった満願の日、龍が天にのぼるのをみて大変喜んだといわれています。
   その後、鎌倉に来た日出上人は夷堂に住んで教えを広めましたが、他の宗派の人の反対にあいました。その後鎌倉公方足利持氏に捕らえられ、六地蔵にあった刑場で殺されそうになりましたが、夷神のお告げで許されました。そのことがあって、持氏は上人の人柄に感心し、夷堂のあった所に寺を建て、境内約二百メートル四方の土地と、十二貫二百文(一貫はだいたい米一石=180リットルと換えられた)のお金を寄付しました。
 
         
本堂
   かまくら子ども風土記(上巻)P99〜P100  
   日朝さま  
     日出上人が三島での修行を終え、鎌倉に来る前、日蓮上人の教えを受けたいと拝んでいると、夢の中で、「もし日蓮に会いたければ伊豆の国の宇佐美へ行け。」と教えられました。宇佐美へ行った日出上人は、そこで鏡澄丸という子どもに会い、その子を弟子にしました。この子どもが日朝上人で、「日蓮上人の生まれ変わり」といわれるくらい、偉い坊さんになりました。
   日朝上人は本覚寺の二代目の住職になりましたが、まもなく身延山の主長になり、身延山を今のようなりっぱな寺に建て直しました。それから本覚寺に日蓮上人の骨を分け、東身延と呼び身延山に遠い人の便利なようにしました。また日朝さまは眼を治す仏ともいわれています。
   「自分が眼病になったとき、法華経と自分の力でなおったのだから、もし自分の名を呼びお祈りをする者は必ずなおしてあげる。」と日朝さまは言われたのだそうです。
   お寺の本尊は釈迦三尊です。なお、境内のつり鐘は日出上人が房州(千葉)木更津八幡宮で論争し、勝った記念にもらった品で、先方では、もらっても持って帰れないだろうと思っていたのですが、上人の供に力の強い人がいて、鎌倉までかついで帰ったといわれています。
   墓地には鎌倉時代の刀鍛冶として有名な五郎正宗の墓があります。
 
         
鐘楼
夷堂橋 夷堂
         
  かまくら子ども風土記(上巻)P100〜P101  
  夷堂  
     本覚寺の山門を出たあたりにありました。この夷堂というのは、鎌倉幕府の裏鬼門という悪い方角に当たるところなので、頼朝が夷をまつり、幕府の守り神としました。
日本には今でもこの考えが残っていて、よく方角が悪いから病人が出たといって、お祈りやお払いをする家があります。
扇ガ谷にある巽荒神なども方角によって建てられた神社の一つです。
   日蓮上人は、佐渡へ流されてから三年後の文永十一年(1274年)に許されて鎌倉へかえることになりました。けれど松葉ガ谷にあった家がこわされてしまったので、鎌倉にいた弟子や信者は、上人の住む家をどこにしたらよいか困っていました。そのとき、見知らぬひとりの老人が現れて、上人を夷堂に案内しました。そして、この老人の姿が境内の大きな松のところで消えてしまいました。驚いた土地の人たちは、「これはきっと夷神の化身に違いない。」と思い、この松を「鎮守御かくれの松」というようになりました。
  上人は幕府の権力や圧迫に負けずに、熱心に教えを広めながら自分の意見を述べていましたが、まもなく夷堂を出て身延山に行きました。
なお、この夷堂のすぐ近くを滑川が流れ、そこにかかっている橋を夷堂橋と呼んでいます。
 
         

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