市街中心部 二階堂 金沢街道エリア | 順路 蛭子神社 |
かまくら子ども風土記(上巻)P101〜P102 | ||||
おんめさまのある大巧寺 | ||||
夷堂橋のところから北に向かってしばらく行くと、左側におんめさまがあります。この寺は初め正覚院大行寺といって十二所にありました。その後、頼朝がこの寺で作戦を練った戦いがうまくいって大勝したので、大巧寺と変えるように命令し、それからこう呼ぶようになったということです。それではどうして「おんめさま」と呼ぶのでしょうか、それにはこんな話が伝えられています。 天文五年(1536年)この寺の日棟上人がある日、比企ガ谷の祖師堂へお参りするため、朝暗いうちに滑川の橋を渡りました。すると、ひとりの女が川原で泣き苦しんでいました。見ると、髪の毛はぼうぼうで血だらけの着物を着て、やせた赤ん坊をだいていました。上人が、 「あなたはなぜ、こんなところで苦しんでいるのか。」 と聞くと、 「私は大倉に住んでいる秋山勘解由の妻ですが、難産で死んでしまいました。毎日この川を渡ろうと思うのですが、水がきたない血になって深さがわからず、そのうえ子どもが乳房に吸いついて泣くので、苦しくてたまりません。どうぞ、お助けください。」 と頼みました。そこで上人は仏の教えを聞かせ、それを信じてお経を唱えれば、必ず苦しみはなくなるといいました。 それから数日たって美しい女が上人の前に現れて、 「和尚さんのおっしゃったように、お経を唱えたら苦しみがなくなりました。お礼に私が生きていたときにためたお金を持って来ましたから、これで塔を建て、これからお産で苦しむ人を救ってください。」といいました。 上人はその気持ちに感心して 「塔を建てて、あなたをお産を守る産女霊神としておまつりしましょう。」 と約束しました。それから上人は大倉の秋山勘解由という人に会い、このことを話し、お金の包みを見せたら、確かに妻が死ぬ前にためていたお金の包みであるといいました。そこでさっそく、塔と産女堂を寺の境内に建てました。その産女がおんめさまと呼ばれ、今でも安産をお祈りする神として多くの人から信仰されています。 |
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