極楽寺 長谷エリア 順路 虚空蔵堂

御霊神社
(ごりょうじんじゃ)
鎌倉権五郎神社


         
  かまくら子ども風土記(上巻)P220〜P224   
  御霊神社と鎌倉権五郎景正   
    江ノ電長谷駅から線路沿いに西へ五分ほど進むと、トンネルの手前に御霊神社があります。ここを土地の人は権五郎さまと呼んでいます。祭神は鎌倉権五郎景正という武士です。この神社はいつごろ建てられたのかはっきりわかっていませんが、鎌倉幕府ができる前からあったお宮です。
  御霊神社というのは、もともと土地の神としての、先祖をまつる神社という意味です。このころ鎌倉のあたりには大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏の一族、五家があったので、これらの平氏の有力な武士の先祖をおまつりする神社として五霊神社が建てられ、それが御霊神社といっしょになり、さらに五霊がいつしか権五郎景正だけをまつるようになったものでしょう。
  平氏の先祖をまつってあるはずの神社で、ただ一柱の神になってしまったのは、権五郎景正という武士が、あまりに武勇の誉れが高かったのと、実際に権五郎神社が領地として開いた所だからだと思われます。
権五郎景正のことは、「奥州 後三年記」(室町時代に書かれた後三年の役の絵巻物)書かれていますが、そのあらましは次のようです。
  権五郎景正は後三年の役(1083年)に、十六歳で源頼家に従って、東北地方の戦いに出かけました。秋田では、金沢という城を攻めたとき味方の先頭に立って大いに活躍しましたが、敵の鳥海弥三郎という者に、右の目に矢を射込まれました。しかし彼はひるまず、その矢を抜こうともしないで、矢を射た敵を倒してしまいました。それから味方の陣へ引き上げ、兜を脱いで、「わたしは傷ついた。」と大声でどなって倒れました。
  そこで、味方の三浦平太為次という強い武士が、つらぬき(毛皮で作ったくつ)をはいたまま、景正の顔を押さえて矢を抜こうとしました。すると、景正は倒れたまま、刀を抜いて為次のくさずり(よろいの腰より下のほう)の間から突き殺そうとしました。為次はびっくりして、  「なぜそのようなことをするのか。」と言いますと、景正は、
  「矢に当たって死ぬのは武士の本望だが、顔を土足で踏まれてはこの上ない武士の恥だ。」恥をかかせるような者は自分のかたきである。」
と言いました。
  これを聞いた為次は、びっくりして今度はひざで押さえ、その矢を抜いてやりました。多くの人々はこれを見て、
  「景正という人はなんと強い人なのだろう。年は若いが恥を重んずるりっぱな武士だ。」とほめました。
  こうしたことから、景正の勇名は人々に知られ、御霊神社の祭神としてあがめられるようになったのです。
 
     
   面掛行列  
     権五郎景正の命日を御霊神社の祭礼日と定めています。
   祭礼は九月十二日から十八日まで行われますが、十八日には面掛行列という珍しい催しが行われます。これは十の伎楽や舞楽・田楽などに使われるような古い面をつけて、変わったいでたちをして行列の御輿の前を歩くものです。腹みっと行列とも呼んでいます。
  源頼朝がある芸能頭の娘を特別にかわいがりましたので、その一族が勢力持つようになり、頼朝が外出するときには、いつもそばに仕えて見張りの役を勤めました。しかし、身分が低いので、顔も見られないようにこの面をつけたのがこの行事の起こりだということです。しかし、どこまでがほんとうかわかりません。
   行列には、一つだけ娘の姿をして、女性の面をつけたのが出てきます。ほかの人たちより美しい着物を着て、頭に冠をかぶっています。お腹が大きくふくらんで、子どもをやどしているかのようなかっこうをしています。
その後ろに、ひとり召使がいて、扇子で前の娘をあおぎながら歩いています。どの面も何ともいえないおもしろい表情をしています。
  しかし、この行列と御霊神社との間に、直接の関係はないようです。この面はずっと以前八幡宮に保管されていたそうですが、それがいつのころからか御霊神社で保管し、行列をするようになったのだといわれています。この面には明和五年(1768年)に作ったという銘文があり、貴重なものです。行列は神奈川県の無形文化財です。
 
         
  石神さま  
    御霊神社の境内に向かって右側に小さな祠があり、人々は石上さまと呼んでいます。海の神をまつったもので祭礼は七月二十五日です。この祠は権五郎さまとは何の関係もありません。また、いつごろ建てられたものかもはっきりしませんが、土地の人々の間には次のような話が残っています。
  この祠の奥に大きな石が置いてあります。その石は初めは坂の下の前浜の沖にあったのを土地の人たちが海の中から引き上げ、それを二つに割った一方をこの御霊神社の境内に安置し、石上神社といっておまつりしたというのです。昔、まだ坂ノ下前浜に数多くの船が出入りしていたころ、前浜の沖に大きな岩石の突き出たところがありました。それは満潮時には海の中へ沈んでしまって見えなくなります。そのため数多くの船がこの石に乗りあげて沈み、人命を奪われました。そこで土地の人々は、これは海神の怒りであると考え、この岩石を引き上げ、半分にして、一方をここに安置して祠をたて、海難をなくすようにしたのだということです。
  今でもわかめを切りに沖に出て、昔岩石のあったところへ行くと、大きな船が海底に沈んでいるのが見られると土地の人々は言っています。
  毎年七月二十五日の石上さまの祭礼には、土地の若者が赤飯を持って、そこへ泳いで渡り、供えものをして海神にささげることが行われています。
  そのため、土地の人々はこの祭り以後でなければ海水浴はしません。子どもたちも祭りが済まなければ泳いではいけないと言い聞かされているといいます。
  この石上神社の祭礼が海開きの行事と結びつけられて行われるようになってきたものだと思われます。またこの祭りを、かっぱ祭りとよんでいるのもそのためではないかと思われます。
  なお、この神社では、祭事に氏子が一人一役を行うという珍しい形を守っています。

 

(C) Copyright Ricky Aoyagi 1998-2004. All Right Reserved.