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鎌倉大仏

大異山高徳院清浄泉寺
(だいいざんこうとくいんしょうじょうせんじ) 
国宝 鎌倉大仏
  露座の大仏(阿弥陀如来坐像)、高徳院(浄土宗)は大異山高徳院清浄泉寺、

開山、開基とも不明。

  源頼朝の待女、稲多野局が思いたち、僧浄光が資金を集めた。

奈良の大仏が勅命によって国を挙げて造営したのに対し、鎌倉の大仏は民衆

の浄財により完成した。

  暦仁元年(1238年)に着工し六年後に完成した大仏は当初は木像であり宝治

元年(1247年)の大風で倒壊したため、建長4年(1252年)現在の青銅製

の大仏が鋳造され高徳院大仏殿に安置された。

その後高徳院大仏殿は二度の大風で倒れ、その都度復興されたが、明応7年

(1498年)の津波で流されてからは露座の大仏として今日に至っている。
 
 
 
かまくら子ども風土記(上巻)P203〜P207
大仏の素顔
   光則寺からバス通りに出て北にまっすぐ進むと、やがて高徳院の赤い仁王門が見えます。門の両側には、青と赤の仁王が怖い顔をして立っています。大仏(阿弥陀如来・国宝)さまの門番で江戸時代の作といわれています。向かって右の赤い仁王は口を開いています。
これは「阿」といって物事の始まりを意味しています。また、左の青い仁王は口を閉じています。これは「吽」といって、物事の終わりを意味しています。また、左の「阿吽」には悪い息を吐き出して、よい空気を吸う、という意味がありますが、大仏の守り役として、このふたりの金剛力士が入口の左右にまつられているわけです。
     
 
与謝野晶子歌碑
 
かまくらや  みほとけなれど  釈迦牟尼は、

美男におわす 夏木立かな

  これは有名な歌人与謝野晶子の作った歌で、歌碑が大仏の裏にあります。
 
 
 
  仁王門をくぐり、この像を見ると、高貴で安らかな姿に、お参りの人々は歓声をもらします。大仏の後ろの山は後光山といって、仏の後ろにある光背の代わりをしているところから名づけられたのです。緑を背に、なにごとにも動じないこの姿には、なんともいえない美しさが漂っているのを感じます。
 
 
  鎌倉大仏はその大きさと同時にその美しさが世界に知られています。十一メートルにも及ぶ巨体が醜く感じられないのはギリシャ彫刻的の要素と仏教芸術の美の表現がうまく融和しているからだともいえましょう。
  ギリシャ彫刻的要素は、弓なりになっている鼻の線に通っているまゆげ、水平な目、微笑をたたえた口に見られます。
 
 
  また、上体の部分が下部に比べて大きく、頭もからだに比べ大きいところ、少し前に傾き下からおがめるようになっていて、近づく人に親しみを感じさせるところは、仏教芸術的な美の表現とみられます。五メートルぐらい離れてこの像をながめると、つりあいのとれた形にみえます。
  大仏様の大きさは、身長(座長)11.31メートル、顔の長さ2.35メートル、目の長さ1.00メートル、まゆの長さ1.24メートル、口の広さ0.82メートル、耳の長さ1.90メートル、体重121、000キログラムあります。高さでは、奈良東大寺の大仏は十六メートルもあるのでかないません。
  茨城県のある子ども会から、「七百年もこうして座っていて大仏さまも苦痛でしょう。散歩するときにはいてください。」と、長さ1.8メートルもあるわらぞうりが送られてきたので、大仏の横にかけてあります。これは秋のとりいれの豊作を感謝して供えたものですが、さて、大仏が腰をあげて歩くとしたら、驚くなかれ東京まで一時間ぐらいで行き着く計算になるということです。
   大仏の額にあるこぶのようなものは白毫といって、白銀で作られているそうですが、ここから世界中を照らす仏の光明が放たれるといわれています。
  また、頭にある、だんごをぎっしり並べたような毛は螺髪といい、六百五十六個あるということです。
  関東大震災では約五十センチ前へすべり出しましたが、昭和三十六年(1961年)日本の文化財でははじめて強化プラスチックで補強して、大地震にも耐えられるようになっています。   
 
大仏のできるまで
   寺の縁起によると、頼朝は鎌倉に住居を定めた治承四年(1180年)に東国にも大仏を造ろうとしましたが、やがてこの世を去ったので、頼朝に仕えていた稲多野局という老女が、頼朝の願いを実現しようとして、頼朝の夫人政子などの力添えで金を集め、暦仁元年(1238年)、木造の大仏を造り、大きな伽藍を建てました。ところが十年後の大風で倒れてしまったので、仏を信ずることのあつかった局は、再び将軍宗尊親王の助けを借りて、建長四年(1252年)こんどは金銅の大仏を造り、お堂を建てたということです。また、「吾妻鏡」には、浄光という坊さんが、六年間全国を托鉢して、大仏を造ったと記しています。たくさんの人が宋銭を出しあって造ったので、大仏の中にはその部分があるといわれています。
  この大仏は、大野五郎右エ門の作とか、鋳物師丹治久友の作とかいわれています。しかし、こんなに大きな金銅仏をどのようにして作ったのでしょうか。
よく見るといくつもの部分をつなぎ合わせてできていることがわかります。大仏近くの山のすそにかないり畠という所があり、そこの井戸から銅くずが出ているので、ここで銅を鋳て体の部分を作って、組立てたのであろうと考える人もあります。鉄の鋳かすも出ていますが、これは大仏のものではありません。
  大仏のところどころに、金箔の残っているのをわずかに見ることができますが、当時はこれが全部に施されていたらしく、その美しかったさまが、目に見えるような気がします。その後、大風や津波によってお堂がこわされ、明応四年(1495年)仏像はついに露座となり、そのまま今日に至っています。露座の大仏にふりそそぐ桜の花びら、絹糸のような雨、秋の名月、真綿のような雪、四季おりおりの姿は、その自然のおりなす美しさと調和して、参拝する人たちの眼に深く焼き付けられることでしょう。
 
 
 
大仏殿跡礎石
 
観月堂
売店・食堂
笠塔婆
 
観月堂
李王朝の月宮殿を移築した世界的にも貴重な建物。
 
大仏坂切通し
  大仏わきの道を藤沢の方へ向かうとトンネルがありますが、そこが大仏坂切通しです。
昔はこのトンネルの上が切通しになっていたので、この坂もかなり急であったことと思
われます。藤沢から鎌倉へはいる大事な道でしたから、多くの人たちが通ったことでし
ょう。古いトンネルは大正十年(1922年)に造られました。
  車の交通が激しくなったので、昭和二十八年、古いのと並んで新しいトンネルができ
あがりました。この切通しも鎌倉七切通しの一つです。
  切通しの手前にある駐車場の奥に、昔、愛染堂というお堂がありましたが、今はあり
ません。愛染明王を信仰した宗尊親王が建てたものといわれています。 

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