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安国論寺
(あんこくろんじ)

日蓮宗  妙法華経山安国論寺   創建  建長五年(1253年)    開山 日蓮上人

本尊  南無久遠実成本師釈迦牟尼仏 

かまくら子ども風土記(上巻)P131〜P132
  岩窟と安国論寺  
     名越の四つ角をすぎ、すぐ左に入ると安国論寺があります。山門をくぐり、右の方へ進むと御小
庵とその裏に御法窟という岩穴が今もなお残されています。この岩穴は大正十二年(1923年)の
大地震で原形を失ってしまいましたが、昭和三十五年ごろ大修理をして復元しています。
  日蓮大上人は建長五年(1253年)鎌倉へ出てきました。しかし、しばらくは人々の無理解にあ
い、大変苦労をしました。道に立って説法しようとすれば聴衆は悪口をいい、瓦や石を投げて迫害
しました。もちろん宿を貸す人などひとりもありません。上人は雨露をしのぐために、一つの岩穴
を見つけ、それ以後そこを道場として説教を続けていました。
  この寺は、日蓮上人の弟子の日朗上人が法窟のそばに造った安国論寺と、後に池上本門寺十一世
日現上人が造った庵を、要法寺と名づけ、この二つが一つになって、安国論寺あるいは安国寺と呼
ばれるようになったといわれています。寺の山号は妙法華経山といい、妙本寺の末寺でした。寺の
名前は上人が岩窟の中で書いたという立正安国論にちなんだものです。祖師堂は昭和三十六年(1
961年)に焼失しましたが、再建されました。
 
         
  かまくら子ども風土記(上巻)P132〜P133   
  御法窟と御小庵   
     日蓮上人が鎌倉に来て道場とした窟を御法窟といい、文応元年(1260年)にはこの中で立正安
国論が執筆されました。昔は日蓮窟あるいは日蓮籠とも呼んでいました。
  文応元年には日蓮上人の住んでいた松葉ガ谷の草庵が焼き討ちにされましたが、その焼跡に、中
山の宮本播磨守が建てたのが御小庵です。中にある日蓮上人像は立正安国論執筆中の上人の姿を日
朗上人が刻んだものといわれています。
  松葉ガ谷焼討法難のとき、白猿の導きで難をのがれたところを南面窟といいますが、日蓮上人は
その後、さらに逗子と鎌倉の境にある御猿畠法性寺にのがれたと伝えられています。
御小庵のわきにある熊王殿は、小町の辻説法以来日蓮上人に従った熊王丸の信仰した稲荷をまつっ
ています。
  御小庵の前にある妙法桜は日蓮上人が房州(千葉県)から持って来た桜のつえを、法窟前にさした
のが根づいたのだといわれています。さかさ木で直立には育たず、横に広がっていき、八重でめし
べ一本が、つえの形をして外へ飛び出しているめずらしいものです。境内には東京の増上寺の将軍
家の墓地にあった立派な灯篭がいくつか移されています。
  また、門前には日蓮上人がここで説法をしているとき、大きな松の木が枝をたれて、炎天をさえ
ぎったというので、御傘松というのがありましたが、昭和二十三年(1948年)松食い虫のために
枯れてしまいました。
 
     
  かまくら子ども風土記(上巻)P133〜P134  
   日朗上人荼毘所  
     安国論寺を建てた日朗上人は、元応二年(1320年)一月、七十八歳でなくなるとき、「自分の
の遺体は最初に出家をし、黒髪をそり落としたなつかしい松葉ガ谷で荼毘に付してほしい。」と遺
言しました。その遺言により、ここで火葬にし、裏の御猿畠山頂に葬ったということです。墓地の
中に日朗上人の荼毘所があります。
  この安国論寺の門前が昔の道で、今もわずかにその名残りをとどめています。そこから横須賀線
の踏み切りの方へいく古道のわきに、「北斗星尊」と彫られた妙見菩薩信仰の珍しい石碑が、今も
残っています。
 
   
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