相州伝鎌倉刀が確立した。その代表が正宗だった。 MilitarySwords of Imperial Japan (Gunto)より、 相州伝鎌倉刀が確立した。その代表が正宗だった。前後文章を引用しております 五世紀初頭、倭国大王履中帝が桜の発見を瑞祥(ずいしょう=目出度い)として、その宮居を磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)と名付けて以来、桜は日本の聖樹となった。
青によしと歌われた平城京・寧楽(なら)の都は咲く花の匂う桜の都だった。この都に君臨する帝の名は「豊桜彦」。 奈良の文化は桜と共に開花し、平安朝に隆盛を極める。 枯死した紫宸殿の梅は桜に植え換えられ、左近の桜と名付けられた。 桜は全ゆる美の極限であった。美は全てを超越した善であり、至福であった。醜は悪であり、悪霊邪気を招く凶であった。 桜は至高の美なるが故に悪霊邪気を払う神威を秘めていると信じられた。聖樹と云われる所以である。 日本神話が語るイザナギの佩剣アメノオハバリ、天孫降臨のアメノムラクモ(草薙剣)の剣も、悪霊邪気を払う辟邪の剣なるが故に神剣と尊崇された。 桜と剣は根元的にその「聖性」は同一だった。 古代、日本の心は「桜」と「剣」に収斂(しゅうれん)されていたように思える。 武者達が凶なる太刀を振るって王朝が最も忌む死穢(しえ)血穢(けつえ)の死闘を重ね、保元の乱(1159)〜平家滅亡(1185)の30年間に渉(わた)る動乱は平安王朝を崩壊させた。 王朝の桜文化は平家の滅亡と共に崩壊し、開拓農園主である武士の時代に移行する。 王朝に代わる武家政権下、土地開拓農園主の後裔(こうえい)である武士達は全国規模で武装し、覇権を争って闘争を繰り返した。 伝統の無い武士にとって、権威(官位・位階)や勢力は自らの武力と、手を血で汚して勝ち取るものだった。 これが武士の美学だった。 その為に、刀剣は鋭利強靱でなければならなかった。神庫に眠る神剣の霊力で敵を倒せるものではなかった。 花と歌と人を愛し、直接手を汚す事の無い王朝貴族(文官・武官)の刀剣観とは決定的な違いであった。 日本へ属国を要求するモンゴルのフビライハンの要求をはねつけた為、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)と二回に渡り筑紫の博多湾に元寇が襲来した。
湾に臨む箱崎宮に「敵国降伏」の額を掲げ、神の加護を祈った。 暴風の助けがあって辛うじて勝利し、武士達は神の加護により神風が吹いたと信じて疑わなかった。 従来の太刀では元寇の革鎧を斬れなかった。 これ以降、身幅が広く、重ねが薄く、反りの浅い体配の刀に代わった。 相州伝鎌倉刀が確立した。その代表が正宗だった。 武士の鎌倉刀から後鳥羽院の桜の祈りは消えた。然し、武士達は鋭利強靱だけを刀に求めた訳ではない。
仏教、特に禅宗が武士社会に浸透していった。武士は刀に神仏の加護が宿る事を信じた。 来国行の太刀には密教法具の独鈷(どっこ)が刻まれている。 鎌倉から南北朝にかけての元寇来襲や頻発する国内動乱は、刀剣の機能を極限まで要求し、刀匠達は作刀技術の限界に挑戦してその能力を発揮した。
将に太刀の黄金期が築かれたのは鎌倉〜南北朝であった。 この時代から刀身に彫刻が施されるようになった。 その彫刻は独古、不動明王、梵字(ぼんじ)等である。 死穢(しえ)血穢(けつえ)の死闘に直接関わる武士だからこそ、武器の本性でもある凶を清めたいと願った。 凶の浄化と護身の祈願を籠めて刀身に彫刻が施された。 鎌倉武士の太刀への祈りだった。 刀に魂や美を求める思想は西欧にも中華を自負する中国にも存在しない。 日本人は古代、渡来した刀剣にも、刀剣の神威・霊力が宿っていると信じた。 その後、後鳥羽上皇の祈りと美学は太刀への聖性と美の頂点を極めた。 この神威・聖性の太刀は、承久の乱の150年後の元弘三年(1333年)、後醍醐帝の命に依る新田義貞の鎌倉攻めの祈り、 鎌倉・稲村ヶ崎より太刀を海中に投じた有名な逸話が 「太平記」(1373年)語られる。 鎌倉は三方を山に囲まれ、海側に切り通しの路一本しか無い要塞であった。 義貞は稲村ヶ崎の巌頭から金銅兵庫鎖太刀を海中に投じた。 すると、海神は霊験を顕し、岬の干潟は潮を引き、路が開けて新田の軍勢は鎌倉に攻め入る事が出来た。 「太平記」は、武将も太刀の神威を疑うことがなかった証と説いている。 この精神性と情緒は日本人だけの特異な、それ故に繊細な感性の所以(ゆえん)である。 鎌倉幕府は崩壊し、後醍醐帝に依る天皇の復権は果たされたが、恩賞に不満を持つ武士達が足利尊氏に従い、光明天皇を擁立して幕府を開く(北朝)。 後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れ南朝(吉野朝廷)を開いた。 南朝と北朝の争いは公家も武家もさまざまな紆余曲折の興亡を重ね、この動乱約一世紀に及び、楠木正成(まさしげ)の湊川の敗戦で収束に向かった。 鎌倉から南北朝にかけての元寇来襲や頻発する国内動乱は、刀剣の機能を極限まで要求し、刀匠達は作刀技術の限界に挑戦してその能力を発揮した。
将に太刀の黄金期が築かれたのは鎌倉〜南北朝であった。 南北朝時代は、鎌倉期の鋭利強靱という刀剣観をその儘受け継いでいる。
王朝文化とは違う武家政権では、この刀剣観は当然の帰結であった。 第三代将軍足利義満は、元中9年/明徳3年(1392年)、南北朝合一を実現し、60年にわたる朝廷の分裂を終結させた。
義満は応永の乱(1399年)で対抗勢力を駆逐して将軍権力を固めた。 一旦体制は安定したかに見えたが、守護大名に依る内乱が打ち続いた。 一方では、茶の湯、能楽、水墨画などの文化が花開いた。 因習に囚われない社会風潮が台頭した。婆沙羅(ばさら)という。 これが下克上の風潮となって戦国期に突入していった。 神仏をも恐れない織田信長などが婆沙羅の典型的な例であろう。 その後、戦国時代に突入して、集団戦の大勢は、騎馬戦から徒歩戦に戦法が変わり、太刀は徒歩(かち)立ち向きに磨上げられ、打刀に移行していった。 応仁元年(1467年)足利八代将軍義政の時、10年に亘る大乱が起こった。
これを契機に下克上の戦国時代が始まった。 源平時代の集団戦では何より弓矢であり、次いで実用の武器は薙刀(なぎなた)だった。
騎馬戦や地上から騎馬武者を斬り伏せるにも薙刀が太刀より遙かに効果的だったと思われる。
南北朝時代の長巻きも同様である。 戦国時代の中期、長篠の合戦(1575年)で、鉄砲が合戦で実用化され、織田信長は最強といわれた武田騎馬軍団を打ち破った。 鉄砲は集団戦の画期であった。戦の主武器は槍と鉄砲に移行した。 薙刀や長巻はそれまで有力な武器であったにも拘わらず簡単に姿を消した。 小振りな薙刀のみ女性用の武器として残った。 武器としての太刀は集団戦の脇役となり、個人の守護・護身刀の色合いを強めた。 集団戦で脇役の太刀は、それでも平時の武将が常に身に帯びる重要な武器であることに変わりはなかった。
武将・武士は太刀に固執した。武士達は決して太刀を手放そうとはしなかった。
一廉(ひとかど)の武将は歌を詠み、能や茶の湯で花を識っていた。神仏への思いも重なってそれらの心が太刀を単なる武器ではない存在にさせた。武将達はそれに相応しい太刀を求めた。
鎌倉武士の心か、後鳥羽院の心かは偏(ひとえ)に武将の素養による。
そこには抜き難い刀剣信仰の存在が確認できる。
弓・槍・鉄砲にはそれがない。郎党、足軽、雑兵の刀も鉄砲・槍の補助武器であったろう。 刀剣観は武器としての鋭利強靱が全てだった。 これらは膨大な需要に応える為の数打ち物と称される刀である。 実戦刀として、戦国期には充分に意味のある存在だった。 安土桃山時代に豊臣秀吉が行った兵農分離に伴う天正の刀狩り(1588年)は武士身分以外の帯刀・武装を許さない政策で、武士と庶民との間に厳然とした身分差を作った。
こうした背景から刀に「武士の魂」という観念が生まれた。 刀は戦国期の量産数打ち物を主とした消耗品から、武士の魂に相応しい入念作が求められるようになった。
合戦毎に破棄されていた数打ち物の需要が激減して、刀匠達は武士の精神的支柱に相応しい刀を鍛造するようになった。 出羽・千種の量産鋼が普及していた頃である。 戦国の争乱が終わり、鎧を脱いだ武士達には、未だ戦塵の余韻があった。 蒙古の革鎧をも断ち斬る相州伝写しの刀が好まれた。戦いに耐えられる「鋭利・強靱性」を根底とした刀剣観が継承されていた。 |