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瑞泉寺

錦屏山 瑞泉寺
  瑞泉寺由緒   
     嘉暦二年(1327年)七朝帝師夢窓国師は西の富士山を客山に北の天台山を主山とする禅院相応の勝地この錦屏山に自ら瑞泉寺を開かれ、中腹の鎌倉石の岩盤に庭の約束事である滝・池・中ノ島等のすべてを巧みにほどこし、二つの橋をかけさらに水を貯めて滝として流す貯水槽まで刻んだ岩庭と呼ぶにふさわしい庭園を作られた。山頂の偏界一覧亭の前景を兼ねるこの瑞泉寺庭園は夢窓国師という優れた禅僧にしてはじめてなし得た禅の庭園で、後の西方寺・天竜寺の先蹤をなすものである。鎌倉に存在する鎌倉期唯一の庭園として、また彫刻的手法の独自の意匠による庭姿をほとんど完全に伝える極めて稀なものとして国の名勝に指定されている。また五万坪に及ぶ広大な境内全域は鎌倉公方家四代の菩提所として関東十刹の首位に列せられた往時の規模をそのままよく保持し伝えるものとして国の史跡に指定されている。  
         
   かまくら子ども風土記(上巻)P64〜P65  
  瑞泉寺  
     瑞泉寺のある谷は紅葉ガ谷といって三方に山を巡らし、清流は苔青く、全く別天地にはいった感じがします。山号を錦屏山というのも、四季の景色が屏風の絵をみるように美しいところから、名がつけられたのでしょう。開山は夢窓国師で、二階堂道蘊が嘉暦二年(1327年)建てた瑞泉院を鎌倉公方第一代の足利基氏が瑞泉寺として再興しました。以後鎌倉公方の菩提寺とされ、五山に次ぐ関東十刹の第二位ともなりました。
   江戸時代の初めごろ、徳川光圀(水戸黄門)がこの寺で、「新編鎌倉志」を編さんさせたといわれています。
   この寺の庭園は、夢窓国師のさしずのもとに造られた代表的な名園といわれています。境内は国指定史跡で、庭園は国指定の名勝になっています。庭には東洋一といわれたユーカリ樹(高さ約六十メートル)ありましたが、昭和二十四年(1949年)のキティ台風で倒され、今ではありません。現在は入れませんが、境内奥には足利基氏の墓、足利満氏・持氏など鎌倉公方の墓があります。拝観はできませんが、夢窓国師の肖像は国の重要文化財に指定されています。なお、夢窓国師は後醍醐天皇や足利尊氏に尊信され、足利基氏の政治顧問でもありました。
   現在、立入ることはできませんが、庭園の後ろから、十八曲がりの急坂を三百メートルばかり登った山頂の遍界一覧亭の跡には、後に建てられた建物があります。夢窓国師が建て、鎌倉五山の僧がしばしば集まって詩会を催した所です。後に、水戸光圀が一堂を建ててそのかたわらの寮を設け、一覧亭詩板を掛けたといわれています。富士・箱根はもとより、鎌倉の連山が一望のもとに見え、視界の広いことでは鎌倉第一といわれています。
   一覧亭の峰続き、瑞泉寺の北にそびえる山は天台山といって、当時は京都の比叡山と相対して考えられた山です。次の歌は夢窓国師の作といわれています。      
 
   前もまた 重なる山の 庵にて 梢に続く 庭の白雪  
     
     
  かまくら子ども風土記(上巻)P65〜P66  
  吉田松陰留跡碑  
      寛永六年(1853年)六月、黒船が四隻浦賀に来たとき、吉田松陰は、その船に乗りこんで海外に渡ろうとしたことがあります。そのときの住職は松蔭の伯父に当たる人で、竹院和尚といいました。松蔭は和尚を瑞泉寺にたずねること前後四回ほどありました。
    松蔭が捕らえられて、長洲の野山獄にいたときよんだ漢詩に、「山の青々とした竹の光が窓からさしこんでくる。方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かである。いま私は、囚のみとなって獄中にあります、むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺をたずねた。」という意味のものがあり、瑞泉寺の留跡碑に刻まれています。これを見ても,松蔭の魂がこの寺にとどまっていることがわかります。山門前後の碑には昭和四年(1929年)徳富蘇峰の書としるされています。
 
     
   かまくら子ども風土記(上巻)P66  
  むじな塚の伝説  
     瑞泉寺に留守番のおじいさんと、おばあさんがいました。瑞泉寺の下にもお寺がありましたが、その寺にもやはりおじいさんがいました。そのおじいさんは夜になると、ときどき瑞泉寺のおじいさんの家へ行き、ごちそうになって帰ります。
   ある晩、瑞泉寺のおじいさんの家の戸をたたくものがありましたので、戸を開けると下のおじいさんが立っていました。留守番のおじいさんはすぐに家の中へ入れて火にあたらせてあげました。するとそのおじいさんは、ついいねむりをして火の前で化の皮をぬいでしまいました。なんとそれはむじなではありませんか、おどろいたおじいさんは、そのむじなのおなかを焼火ばしでつついて殺してしまいました。そのむじなは、毎晩おじいさんに化けて、瑞泉寺に来てはごちそうになっていた悪いむじなだったのです。しかし、死んでしまえばやはりかわいそうなので、おじいさんはお寺の前に墓を作ってやりました。その墓石が今あるむじな塚なのです。石段を登りきったすぐ左手の茂みの中に、おわんを伏せたような形をしています。
 
     
    かまくら子ども風土記(上巻)P67  
  貝吹地蔵  
     元弘三年(1333年)新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき、北条高時の首を、新田勢に渡すまいとして、家来の者が持って逃げました。どこに埋めたらよいか迷っていたとき、お地蔵さんが貝を吹きながら、一覧亭から天園に向かう途中の谷間に導いてくれました。そのため無事首を埋めることができました。後にその谷の上方の尾根に、お礼の地蔵を安置しました。この地蔵を貝吹地蔵と呼んでいるのです。これは鎌倉に昔から伝わる地蔵信仰の物語の一つです。今は瑞泉寺裏のハイキングコースのそばにあり、近くに北条一門の墓と伝えられる北条首やぐらがあります。  
     
     

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