扇ヶ谷源氏山佐助エリア 順路 佐助稲荷

銭洗弁財天宇賀福神社
(ぜにあらいべんざいてんうがふくじんじゃ)


かまくら子ども風土記(上巻)P161〜P163
   銭洗弁天(宇賀福神社)  
    葛原岡神社から引き返して、まっすぐ佐助ガ谷に下る途中、右の鳥居の奥のトンネルを行くと、たくさんの鳥居の奥に祠があり、その左わきの穴ぐらの中に弁財天がまつってあります。これが銭洗弁財天で、お参りして前の小さな池で銭を洗っていく人が少なくありません。
  ここには、次のような話が伝えられています。
  平安時代の終わりのころは世の中が大変乱れ、その上ききんが続いて、人々の苦しみはひどく、目もあてられないありさまでした。
  頼朝は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳の年の文治元年(1185年)巳の月の巳の日の夜中、夢にひとりの老人が現れ、「お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に関心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに楽しく暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。人々はこれを知っていない。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い神たちはいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。」と言って姿を消しました。
 夢からさめた頼朝が、すぐ家来をやってその場所を探らせると、岩の間からきれいな水が湧き出て、夢で知らされたとおりでした。頼朝はさっそく石工に命じて、穴ぐらを掘らせ、社を建てて、夢に現れた宇賀神をおまつりしました。そして毎日その水を運んで供えたので、天下はしだいに治まり、盗賊たちもたちまち滅んで、人々は安楽な日々を送るようになりました。
  その後、正嘉元年(1257年)、執権北条時頼は、頼朝の心を継いで、この福の神を信仰し、辛巳の日を選んで人々に参拝させました。そして、時頼は天下の通宝である「銭」をこの水で洗い清めればきれいな福銭となり、その銭は必ず一粒百倍の力を現して、一家は栄え、子孫は長らく安らかになるのであろうといって、自ら持っていた銭を洗って祈りました。時頼の徳を慕って尊敬している人たちは、競って時頼にならい、金銀財宝や、証書や衣類までも持って来て、この水で洗い清めるようになりました。
すると不思議にも、一度この水で洗い清めた金銭は、どんな場合にもなくなることがなく、お金の貸し借りの証文なども無事に済んで、貸借ともに、めでたく幸福利益を得るようになったといいます。それからいつともなく、銭洗いの水と呼ぶようになり、鎌倉五名水の一つとして知られ、巳の縁日には参拝する人が非常に多いのです。なお、弁天のご神体の宇賀福神は水の神で、体は蛇、頭は人の形をしています。
 
         

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