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日蓮上人辻説法跡
(にちれんしょうにん つじせっぽうあと)
日蓮宗  


かまくら子ども風土記(上巻)P104〜P106
  辻説法の跡  
    琴弾橋から小町大路にもどり、北へ約五十メートル行った地点に「日蓮上人辻説法跡」
というところがあります。この辺は昔、武士の屋敷町と商家町との境になっているところ
で、非常に人通りの多いところでした。そこには日蓮の腰掛石というのもあります。日蓮
は人通りの多い辻に立って法華経の正しいことを熱烈に説きました。これを辻説法とい
います。そしてその場所を辻説法跡と呼んでいます。日蓮はこの辻説法で他宗を攻撃しま
したので、ずいぶん迫害を受けました。しかし、その燃えるような熱情と鉄のような信念
が、今日のような日蓮宗の隆盛をもたらすことになったのです。
 
     
  日蓮上人   
  日蓮は承久四年(1222年)二月十六日、安房国(千葉県)東条郷の海浜、小湊に生まれま
した。父は貫名重忠といい漁業をしていました。十二歳のとき、真言宗の道場であった清
澄山に登って修行し、十六歳のとき受戒し、名を蓮長といいました。翌年鎌倉に勉強や修
行に来て四年間とどまっていました。その後比叡山に登りひたすら勉学に励みました。建
長五年(1253年)三十二歳のときいったん安房に帰りました。同年法華宗を開く宣言を
しましたが、地頭の東条景信におこられ、追われて鎌倉に来ました。このとき父母に戒を
授けて、妙日、妙蓮の法名をつけ、自分も日蓮と称したと伝えられています。
  日蓮は名越の松葉ガ谷に草庵を建て、「法華経」の布教に努め、人々の迫害を受けなが
らも辻説法を盛んに行い、日昭・日朗や四条金吾・池上宗仲等武士からも帰依者が出まし
た。当時、地震や病気がしきりなしに起こったのでそれを心配して「守護国家論」を作り
、さらに政治や社会の根本の考え方を示そうとして「立正安国論」を著わし、文応元年(
1260年)北条時頼に提出しました。それは、法然の念仏、禅宗のあやまっていること
を説き、これを禁止するように、幕府に迫ったものです。また「これらの邪宗をやめさ
せなければ、しばし起こる地震や悪病はやまないし、近い将来に、むほんや外国からの侵
略があり、国が滅ぼされてしまう。これから免れるには、法華経を盛んにするしかない。
」と進言し、そのために人々からきらわれて、松葉ガ谷の草庵は焼き払われました。日蓮
は下総の中山の草庵(後の中山法華経寺)に行きましたが、弘長元年(1261年)罪におと
され伊豆の伊東に流されました。三年後に許されて鎌倉に帰りましたが、自分の信念は少
しも曲げず、もっぱら法華経の普及に努めました。文永五年(1268年)蒙古の来襲の知
らせを知ったので、日蓮は立正安国論の予言が的中したことを説いて、幕府をはじめ、建
長寺の蘭渓道隆、極楽寺の忍性、浄光明寺の行敏らに書を十一通も出して改宗を勧めまし
た。しかし、忍性や行敏はあまり日蓮がののしるので、幕府に訴えました。
  文永八年(1271年)九月十二日に捕らえられ、片瀬の竜ノ口で切られようとしました
が、ゆるされて佐渡に流されました。それから三年後、文永十一年(1274年)許されて
鎌倉に帰り、一時、本覚寺のそばの夷堂に住みました。
  北条時宗らは日蓮を幕府に呼び出して、幕府のやりかたをわび、佐渡での苦労を慰め、
「今後、上人が法華経の布教を穏やかにするならば、あなたのために愛染堂を建て、なお
一千町歩の良田をあげよう。」
と言いました。これに対して上人は、
  「私の目的は正しい宗教を広めて日本の国を安らかにし、また、多くの困ったり悩んだ
り苦しんでいる人々を救うことにあるのだから、愛染堂などはいりません。」と断りまし
た。そして蒙古がせめてくると言ったり、北条義時や時頼は地獄におちただろうと言った
りして、幕府のやりかたに反対しました。ところが幕府は信者の武士などを迫害しました
。そこで日蓮は鎌倉を去り、身延山に久遠寺を建て、そこに移りました。それから八年、
一歩も外にでないで一心に弟子の教育に努めました。弘安五年(1282年)病気になり、
身延山を下って常陸の温泉に療養に行く途中、武蔵国(東京都)池上の池上宗仲の家でなく
なりました。六十一歳でした。遺言により遺骨は身延山に葬りました。
 
     
     
 
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