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妙本寺
(みょうほんじ)

日蓮宗   長興山妙本寺    創建  文応元年(1260年)   開山  日蓮聖人

本尊  十界大曼荼羅御本尊

かまくら子ども風土記(上巻)P114〜P116
  妙本寺 
     鎌倉駅をから東に出て本覚寺をとおりぬけると夷堂橋があります。この橋を渡るとつきあたりに山門が見えます。これが妙本寺です。古くからこのあたりを比企ガ谷といいました。
   鎌倉時代、この比企ガ谷に比企能員一族が住んでいました。妙本寺はこの能員の屋敷です。能員の娘、若狭の局が将軍頼家の側室となり、一幡を生みました。建仁三年(1203年)八月、頼家が重い病気にかかりましたので、万一の場合、次の将軍をだれにするかということで頼家の弟千幡(後の将軍実朝)を推そうとする人々があり、意見が二つに分かれて対立しました。このとき、一幡の祖父にあたる比企能員は将軍頼家に訴えて、強引に政治の実権をを一幡に譲らせようとしたのです。このことが北条時時政に知れ、比企能員は間もなく殺されてしまいました。
  そこで比企一族は、一幡を擁して比企ガ谷に立てこもりました。時政の子義時、孫の康時や、小山、畠山、三浦、和田等の大軍がこの比企ガ谷に押し寄せ、比企の一族を滅ぼしてしまいました。もちろん一幡も死にましたが、若狭の局も比企ガ谷の井戸に身を投げて死んでしまったといわれています。
  一族滅亡のおり、やっとのがれた能員の末子で二歳の男の子がおりました。この男の子は成人して、学者となり、順徳天皇に仕えて比企大学三郎能本と名のりましたが姪の女美 子
女偏に美しいと書いて一字で、よし、子をつけて、よしこ ( 竹の御所)が頼経将軍の夫人となった関係から、許されて鎌倉に帰り、日蓮上人の弟子となりました。そして、師日蓮のために父の屋敷跡にお堂を建てたのがこの妙本寺です。妙本寺は、山号を長興山といい、開山は、日朗上人です。今も日蓮宗池上派の格式高い寺院の一つです。霊宝殿には国の重要文化財である雲版や新釈迦堂にあった釈迦如来像、日蓮上人関係の多数の宝物が納められています。
また境内奥の祖師堂には美しい厨子に日蓮上人像を安置しています。 
         
祖師堂 山門(二天門)
   
   かまくら子ども風土記(上巻)P116
   一幡の袖塚
     妙本寺の長い参道を進んで坂をのぼりつめ、山門(二天門)をくぐると、すぐ右に小さなお墓があります。これが一幡の袖塚です。
一幡は比企一族に守られ、小御所に立てこもって防戦しましたが、義時の兵に攻められ、ついに火を館に放って自殺しました。のちに遺体を灰の中から探して、わずかに小袖の端の残っているのを見っけ、ここに埋めたと伝えられています。
   右手の山ぎわには比企一族の墓があります。
         
       
  源頼家卿嫡男一幡君御廟所   源頼家卿嫡男一幡君袖塚 
    
   比企能員公一族 四基の五輪塔 左 能本公石塔 
       
    
   新釈迦堂の地にある竹御所(源よし子)の墓  
  かまくら子ども風土記(上巻)P117〜P118 
  新釈迦堂跡 
    妙本寺の左奥の祖師堂の池を隔てて竹の御所の跡があります。頼経将軍の夫人 女美 子(女偏に美しいと書いて一字で、よし、子をつけて、よしこ)住んでいたところで、今はその墓が残っています。女美 子は源頼家の子一幡の妹にあたるひとです。
  この人が難産で死ぬとき、
  「私はお釈迦さまを信仰していましたので、私が死んだ後はお釈迦様の像をおまつりする堂を建て、と言いました。源氏の最後の人であり将軍の奥方なので、その遺言どおりにたてられたのが新釈迦堂です。それは今の祖師堂の左上の墓地です。釈迦の像は宋(中国)の陳和卿の造ったものといわれ、霊宝殿にあります。
  幕府はこの堂のために供田(寺の財宝の田)を寄付し、住職を住まわせました。初めの住職だった人が仙覚律師で、この人は「万葉集」を研究
した人として有名です。


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