建長寺エリア | 順路 三門(山門) |
かまくら子ども風土記(中巻)P8〜P10 | ||||||
建長寺 | ||||||
円応寺の前の道路の反対側に有名な建長寺があります。この寺は山号を巨福山といい、建長五年(1253年)に北条時頼が、宋(今の中国)から来た蘭渓道隆(大覚禅師)という偉いお坊さんと、力を合わせて建てたものです。道隆は初め寿福寺にいて、ついで大船の常楽寺に住み、建長寺ができると同時に開山となりました。弘安元年(1278年)七月二十四日、六十六歳でなくなるまで、建長寺のために尽くした人です。なくなってからは、後醍醐天皇から大覚禅師という名まえをいただきました。これは禅師号の初めです。寺の建つ前は、このあたりを地獄谷といって、罪を犯した人の処刑場だったところです。今は桜の花も美しく咲き、見学に来る人も「建長円覚古寺の、山門高き松風に」(かまくら)と歌われたりっぱな山門を見あげています。大覚禅師をおまつりする開山忌毎年八月二十三日と二十四日で、大変にぎやかです。建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山で、鎌倉五山の大一位で鎌倉にある禅宗の中で一番大きなものでした。円覚寺とともに、鎌倉時代における本格的な禅宗の創立地となりました。 永仁元年(1293年)鎌倉に大地震があり、寺は大部分倒れ焼けました。その後もたびたび火災にあっていますが、そのたびに再建されました。正中二年(1325年)、嘉暦元年(1326年)には、建長寺造営再建のため、元(中国)に貿易船を派遣して、その費用に充てたりしています。寺の規模も鎌倉時代末期には総門・山門・仏殿・法堂が中心線上に並び、山門・仏殿・庫裏・僧堂・衆寮その他が回廊によって結ばれ、庫裏と僧堂、浴室と西浄が左右対称の位置にあって、中国風の配置であったことがわかります。また、元亨三年(1323年)ころ、寺の坊さんとその他の人の人数は約千人に近い数であったといわれています。寺用米は、四千石に及んだようですし、年貢米は五千貫に達していたようです。したがって寺領は相当莫大なものであったでしょうが、その史料はほとんど残っていません。末寺は関八州に及び、その数も四百以上ありました。 建長寺にあった塔頭は「鎌倉五山記」によると、四十九院をあげていますが、現存しているのは、西来庵・妙高院・同契院・天源院・正統院・竜峯院・宝珠院・回春院・禅居院だけです。 総門には一山一寧の書いた「巨福山」の額をかかげていますが、「巨」の字に打たれた点で百貫の値うちが出たというので、百貫点と言われています。方丈とともに京都から移築したものです。総門を入ると江戸後期の再建といわれる山門があります。以前はかやぶきで、現在銅ぶきに改修されています。 |
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総門(巨福門) |