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                 覚園寺(かくおんじ)

古義真言宗泉涌寺派 鷲峰山真言院覚園寺 
 永仁4年(1296)  開山 心慧上人
 

 建保6年(1218)北条義時  大倉薬師堂を建立   

かまくら子ども風土記(上巻)P55〜P57
  覚園寺  
     鎌倉宮の鳥居の前を左にはいって約十分ばかり行くと、静かな境内(国史跡)と黒地蔵で知られる鷲峰山真言院覚園寺があります。
  建保六年(1218年)、将軍実朝が拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣したとき、行列の中にいた北条義時は、礼拝の神事が終わって家に帰り寝ていると、夢の中に薬師如来に従う十二神将の戌神将が現われて、「今年の神事は事故はないが、来年の参拝には、お前はお供をしてはならない。」とささやくのを聞きました。義時は日ごろ神仰する薬師如来のお告げと思い、寺を建てて薬師の像を安置しようとして、大倉の山ぎわに工事を始めました。このとき、義時の家来たちはこれをいさめて、「将軍参拝の儀式も行われ、大ぜいの公卿等が京都からきて、そのもてなしだけでも武士や農民たちはすっかりまいっています。そればかりでなく、人々は使役に使われて、そのうえ出費もまだ続いていますのに、今また新しい工事を始めることは賢明の策ではありません。」と言いました。義時は、「これは自分の安全を祈るためなので百姓の力を借りたりしたりして行うものではない。」といって、私財を投じてその工事を完成し、同年十二月二日、薬師如来の像を安置して一族や家来を集めて供養の儀式を盛大に行いました。これが覚園寺の前進の薬師堂です。
  翌年正月二十七日、鶴岡八幡宮で拝賀の式がおこなわれたとき義時は去年の夢を思い出し、心は進みませんでしたが、心ならずも行列に加わり、御剣の役について進んでまいりました。楼門を入ると、夢のように白い犬が将軍のそばに見えました。義時はそれを見てにわかに気持ちが悪くなり、一歩も進めなくなりました。そこで剣を他の人に譲り、行列からぬけて家に帰ってしまいました。
  この神事は夜遅く終わりましたが、実朝退出の際、別当公卿のため石段ぎわで殺されたのでした。御剣の役を譲られた源仲章も斬られました。義時があのままこの役を勤めていたならば、当然命を落としていたわけです。公卿は三浦義村をたのみにしていましたが、義村は義時と連絡をとり、長尾定景らに公卿を打たせました。
  義時は二月八日薬師堂に参詣しました。すると僧が、「一月二十七日の夜中不思議な事がありました。それはお堂の十二神将のうち戌神将(犬)伐折羅大将の像が夜中から明けがたまで堂の中に見当たりませんでした。」と話しました。それを聞いた義時は思い当たることがあり、そのお守りの威力のありがたさに深く感じ、それからいっそう深く信心したといいます。
  その時、北条氏の信仰を集めましたが、永仁四年(1296年)に北条貞時が元寇を退けるため心慧上人を開山としてこの地に造ったのが覚園寺です。建武の中興では、後醍醐天皇の勅願寺とされ、以後足利氏の祈願所ともなりました。
 
         
愛染堂
   かまくら子ども風土記(上巻)P57〜P58  
  薬師堂  
    これは覚園寺の本堂で仏殿ともいわれています。このお堂は室町時代からのこっている古い建物のひとつで、昔はこのほかにも多くのお堂があり、大変りっぱなものでしたが、今ではこの薬師堂しか残っていません。このお堂は元禄年間(1688年〜1704年)従来あったものを造りなおしたものですが、その材料には、昔のものを使っており、内陣は以前の面影を残しています。
  天井には文和三年(1354年)このお堂を修理したときに足利尊氏が書いたという「天皇殿下のもとで世の中は治まり、元の軍の降伏を祈ったおりにはお寺が栄えた。仏法はますますきわまりなく、人々は仏と法と僧の三宝を敬い、国内は平和で日々を楽しむことを願う。」といった意味の文字が天井にはめこんだはりに記されています。
  また、天井中央の丸い竜の図は、江戸時代に修理したとき、狩野典信という人が描いたものといわれています。大正十二年(1923年)の関東大震災で大破し、昭和二十八年(1953年)国庫補助を得て修理しました。本尊は薬師如来で、その両脇に日光菩薩・月光菩薩が安置され、それぞれ国の重要文化財になっています。左右には子・丑・寅など十二支の動物を頭に乗せて薬師を守る十二神将がまつられ、理智光寺から移された鞘阿弥陀もあります。
 
         
   かまくら子ども風土記(上巻)P58〜P59  
  黒地蔵  
     覚園寺の地蔵堂にまつられている黒地蔵は国の重要文化財で、高さ約一・八メートル、別に火たき地蔵ともいいます。伝えによると、このお地蔵さまは慈悲深いかたで、地獄を回って罪人が攻められているのをごらんになり、じっとしていることができず、自分が地獄の番人に代わって火をたき、罪人の苦しみを少しでも軽くするようになさいました。そのため、火をからだに受けられて黒くすすけているのだといいます。いく度彩色をしても、一夜のうちにもとのようになってしまうということです。今も、この地蔵の信仰は盛んで、毎年八月十日参りといって、九日の夜おそくから、あちこちの善男善女が集まります。
  黒地蔵の左右両側に数多くの小さな地蔵が安置されています。これを千体地蔵といいます。昔から黒地蔵は霊験あらたかで、安産・子育てまたは子宝を恵まれるように願う者や、あるいは諸病をなおしたり、障害を除き、福が来るようにと願う人たちが大ぜいお参りします。この人たちは黒地蔵の分身として、千体地蔵の一体を借り受けて、自分が家で一心に供養すると、ご利益がたちどころに現れるということです。願いがかなったときには、その一体に彩色を施し、あるいは、新たに一体を作ってお返しするならわしになっており、利益を受けた者の数は多く、今日に及んでいるといいます。
  なお、本尊の黒地蔵に一心に参拝すれば、この千体中の一体がなくなった人の相を表すので、その人に会うことができるともいわれています。
 
     
    かまくら子ども風土記(上巻)P59〜P62  
  願行上人試みの不動  
     願行上人の修行時代、高野山に徳の高い意教上人がいました。願行は、意教上人の教えをうけようと、京都よりはるばる高野山に登り、弟子の礼をとりました。文永(1264年〜1275年)の初めごろ、将軍が意教上人の徳望を聞いて、「ぜひ鎌倉へおいでください。」といくども頼みました。意教上人は一度はその申し出を断りましたが、とうとう鎌倉に来ることになりました。師のそばを離れなかった願行はともに鎌倉に来て、師のそばで三年仕えました。意教上人は、願行が熱心に修行するのを見て、心の中で関心していました。ある日、願行を呼び寄せて日ごろの苦労をねぎらいながら、「おまえのほしいものは何だね。」とお聞きになりました。願行は、「私は名誉も利益も望みません。ただ仏法を伝授してくださるのならば、まことにありがたいと思っています。」と答えました。意教上人はうなずいて、鉄の阿弥陀如来を手に持ち、「私の伝える秘密の仏心を受けたければ、この鉄仏の目を開かせなさい。望みどおり私の仏法も伝授しましょう。すみやかに当地の大山に行って念願をこめて祈るがよい。」と教えました。
  大山は、鎌倉の西北約四十キロメートルにあり、海抜千二百五十三メートルで、大山祇神をまつっています。(江戸時代には石尊権現といった。)この山に登るとたちどころに神罰をうけるといわれて、昔はめったに人が登らない深山でした。
  願行は、鉄仏をちょうだいし、大山にとじこもり、「仏眼を開かせてください。」と不動明王を思い浮かべて、百日の間苦行を続けました。
  ある朝、願行があい変わらず鉄仏を前に置き、不動明王に祈っていると、山を流れる霧が鉄仏もろとも願行を包みました。すると、不思議にも霧が二つに裂けて、その中から右手に剣、左手に羂索(衆生を引きよせる綱)を持った不動明王が天まで届くような火焔を背にし、周囲に八大童子を従えて、怒りの形相もいかめしく現れました。
  願行はその姿のおごそかさに打たれて、からだを地に投げ出し、「弟子願行、法のために身命を捨てて祈ります。何とぞこの鉄仏の仏眼をお開きください。」とひたすら祈りました。すると童子のひとりが願行の前に来て、その鉄仏を取り上げ不動明王にささげました。不動明王はその鉄仏の両眼を、眼光ものすごくぐっとにらみつけました。不思議なことに鉄仏の両眼はぱっと開いて、まるでみがいた宝石のように澄み輝きました。さきの童子はその鉄仏をまた願行の所に持ってきましたので、願行はうやうやしく拝むと、不動明王も童子もかき消すように消えて、周囲はもとの深い霧に閉ざされ、目の前の樹木も見えないようになりました。願行は大いに喜び感涙にむせびながら、出現した不動明王の姿を忘れぬ間にと写し、後に、その姿を理智光寺に鋳造所を築いて鋳造したといわれます。このときの試作品が試みの不動といわれ大楽寺に伝わり、現在、覚園寺の愛染堂に安置されている鉄造り不動明王だといわれていますが、拝観することはできません。
  願行上人は、鎌倉に大楽寺・理智光寺・大町の安養院の三つの寺を開き、大山寺を再興した徳の高い名僧でした。
 
     
   かまくら子ども風土記(上巻)P62  
   棟立の井  
     現在では立入ることができませんが、覚園寺薬師堂後ろの山ぎわにあって、井戸口が家の棟形をしているので、棟立の井とか、また破風の井ともいわれています。この井戸は昔、弘法大師がこの地に滞在したときに掘って、閼伽水(仏にたてまつる水)を汲んだといわれている所です。水質は大変よくて、鎌倉十井の一つに数えられています。一時は土に埋まって場所もわからなくなりましたが、今は発掘されています。  
     
    かまくら子ども風土記(上巻)P62  
   開山塔と大燈塔  
     ここも現在では入れませんが、薬師堂の裏に覚園寺歴代の住職のお墓があります。大きな宝篋印塔が二つあり、開山の心慧智開国師、第二世大燈源智律師のお墓です。このような石塔の代表作といわれるりっぱなもので、保存もよくされています。両塔とも作り方は同じで、国の重要文化財です。  
     
    かまくら子ども風土記(上巻)P62〜P63  
  覚園寺百八やぐら  
     覚園寺の裏山一帯には、鎌倉時代から室町時代にわたる武士やお坊さんの墓と伝えられるたくさんのやぐらがあり、これを覚園寺百八やぐらと呼んでいます。最近、風化したり、埋没したり、こわされたりしていますが、たいせつに保存したいものです。
  峰伝い一帯のやぐらには弘法大師八十八ヵ所になぞらえて、大師を安置したこともありましたが、心ない人々のために頭を取られ、やぐらがこわされたのは残念です。この一帯を鷲峰山と呼び覚園寺の山号となっています。
  
 
     
   かまくら子ども風土記(上巻)P63  
   十王岩  
     鷲峰山から半僧坊に向かう途中の自然石に閻魔大王が浮彫りにしてあり、これを十王岩と呼んでいます。現状は風化して姿が明らかでありませんが、この十王が夜になるとわめいたといわれ、またの名を喚き十王ともいっています。おそらく、山の上にあるので、風が当たって音がしたのでしょう。  
     
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