極楽寺 長谷エリア 順路 稲村ヶ崎公園

十一人塚
(じゅういちにんづか)

かまくら子ども風土記(上巻)P239
江ノ電の稲村ヶ崎駅を降りて線路沿いに鎌倉の方へ少しもどると、十一人塚と呼ばれる所があります。元弘三年(1333年)鎌倉攻めのとき、大館又次郎宗氏は新田軍の浜手の大将となって、北条方の軍勢を追って、極楽寺の切通しから攻め込みました。このため北条方から本間山城左衛門が手兵を率いて決死の勢いで新田軍の本陣に切り込みをかけました。そのため新田勢の本陣は一時総くずれとなり大将の大館宗氏は奮戦しましたが、ついに稲瀬川で討ち死にしてしまいました。家来たちはみな傷ついて、霊仙山に陣を変えました。しかし、最後まで残った十一人もついに力尽きて自刃してしまいました。そこで、ここに死体を埋め、十一面観音の像を建てて、その勇ましい武士たちの魂を弔いました。そのため十一人塚と呼んでいるのだといいます。塚というのは墓という意味なのですが、これは後の供養塔だとも言われています。この十一人塚の上に大きな松の木があったのですが、今は枯れて次の松が植えてあります。その大きな松について次のような話が伝わっています。
  もとの大きな松は、十一人塚を包むように枝を広げていましたが、おもしろいことに、一本として枝が十文字に重なってみえるのがなかったというのです。それは、宗氏以下十一人が切腹を十字に切ったことに関係があるのだというのです。

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