極楽寺 長谷エリア |
かまくら子ども風土記(上巻)P240〜P241 | ||||
元弘三年(1333年)五月、新田義貞は、鎌倉攻めのときに極楽寺坂を攻め上るのは無理だと考えました。しかし、ほかに鎌倉へ攻め込む道はありません。残された道は、海を渡り稲村ヶ崎を回って、坂ノ下の前浜に進むという道だけです。義貞は海の潮のひくのを待って、海岸伝いに鎌倉に攻め込もうと考えました。 | ||||
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義貞は鎌倉にも長くいたことがありますから、海の潮の満ち干についても多くの知識を持っていたと思われますが、多くの武士たちは海を知らない山国の者でした。そこで、義貞はこんな案を考えたといわれます。 それは、海の潮のひくとき、海の神に祈りをささげて、海の神がその願いを聞いて海を干潟にしてくれたように武士たちに思わせ、自信を持たせ、元気づけてやろうというのです。そこで武士たちのよく見えるような岸に立ち、後醍醐天皇からいただいたという黄金作りの太刀を、海の潮のひく時刻を見はからって海中に投じ、海神に祈りをささげました。すると海の潮がぐんぐんひき始めたのです。海を知らない武士たちはびっくりして、自分たちの軍には神がついていてくれると元気を盛り返し、ときの声をあげて海岸伝いに鎌倉に攻め込んだといいます。これが稲村ヶ崎につたえられている話ですが、この新田義貞が刀を投げたという話は本当かどうか分かりませんが、その場所は、稲村ヶ崎の岩のある所よりもっと西へ寄った姥ヶ谷の前の出っぱりあたりだといっている人もあります。 なお、この稲村ヶ崎は、山の形が稲叢を連ねたようだからこの名がついたと伝えられています。 吾妻鏡には、鎌倉の四方の境が稲村であったわけです。ここから西の方をながめると、富士山や伊豆の山々、近くは七里ヶ浜や江ノ島が一目で見渡せ、本当にすばらしいながめです。 |
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