かまくら子ども風土記(上巻)P118〜P120 | ||||
ぼたもち寺(常栄寺) | ||||
妙本寺の入口わきの小道を南に少し行くと、ぼたもち寺で有名な常栄寺があります。 日蓮上人は大町松ガ谷に草庵を作りましたが、鎌倉幕府はもとより、 大ぜいの人たちにも、日蓮の教えは快くうけいれられませんでした。かえってひどい迫害を受けたりしているうちに、文永八年(1271年)九月十二日、鎌倉幕府のさし向けた武士数百人と日蓮上人を憎むひとびとが、日蓮を捕らえようと草庵目がけて押しよせて来ました。ついに捕らわれの身となった日蓮上人は竜ノ口で切られることとなり、鎌倉町中をあちらこちらと引き回されました。その事を聞いた信者の老婆が、最後のご供養にぼたもちでも差し上げようと作り始めましたが、それも間に合わず、ありあわせのご飯にごま塩をつけて握り飯を作り、なべふたにのせて、群集をかき分けながら前に進み出て、 「かわいそうな上人様、私は老人で何もできませんが、どうか安らか に往生なさいませ、きっと仏さまのお加護がありましょう。」と涙ながらに言って、握り飯を差し上げたのです。上人は老婆の温かい心をくんで、 「ありがたいこと、ごまのぼたもちじゃな。」 と喜ばれました。その夜、竜ノ口の刑場で起こった奇跡は有名な話です。突然光物が飛び、あらしが吹き武士の刀は折れ、上人は首をはねられずに済んだといわれます。 常栄寺が建てられたのは、寛文十二年(1672年)、建てた人は慶雲 院日裕尼上人といい、水野重良の娘で、まだ若いときに尼になったひとです。先に述べたぼたもちの供養に心を打たれ、そこに一つの建物を建て、そのうえ、今の学校のように学堂を運営しました。これがこの寺の始まりなのです。その後、一時寺の建物がなくなったこともありましたが、現在に至るまで、ぼたもち供養の徳をたたえて、ずっとつづいているのです。なお、日蓮上人に握り飯を差し上げた老婆は、桟敷台に住んでいた桟敷尼という人です。この婦人の夫は、将軍宗尊親王の近臣で兵衛左衛門尉といい、夫婦とも法華宗の信者でした。この尼は、日蓮の竜ノ口の法難から三年たった文永十二年(1274年)に八十八歳でなくなり、法名を妙常日栄といいます。これをとって常栄寺というようになったのです。今もこの夫妻の墓はこの寺の境内にあります。なお、日蓮上人が奇跡的に竜ノ口で救われたところから、世間の人たちは「これは老婆のくれたぼたもちのご利益に違いない。」として、毎年九月十二日の護法難会のとき、この寺から妙本寺、竜口寺等の日蓮上人の像にぼたもちを供えることになっています。そのぼたもちを「御難ぼたもち」とか「首つなぎぼたもち」とかいっています。 |
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