扇ヶ谷 源氏山 佐助エリア | 順路 浄光明寺 |
かまくら子ども風土記(上巻)P149〜P151 | ||||||||
英勝寺 | ||||||||
寿福寺の北隣、横須賀線踏切の西側に浄土宗の英勝寺という尼寺があります。ここは、もと扇ガ谷上杉家の家来太田道灌の屋敷のあったところです。道灌が狩に出てにわかに雨に会い、農家にみのを借りにはいったとき、少女の差し出すやまぶきの花の意味がわからず、やがて 七重八重 花は咲けども やまぶきの みの一つだに なきぞ悲しき という歌を知って、みのを断ったことが分かった話は有名で後に江戸城を築いたといわれる人です。 その道灌の四代の孫太田康資の娘で、水戸頼房の義母となったお勝の局(英勝尼)が、寛永十一年(1634年)に、祖先の住んでいたこの地を選んで建てた尼寺がこの寺です。それから後、代々この寺は水戸家からお姫様が来て住職となりました。軒に十二支のある仏殿。祠堂・唐門・鐘楼は江戸時代初期の建物です。鎌倉の寺の中でも、これだけ立派な建物がよくそろっていて、建てられた当時のまま残っている所は少ないようです。当時の盛んであった様子がうかがわれます。しかし、山門は小町の東勝寺橋の奥に移されています。 英勝尼は、家康に仕えてお勝の局と呼ばれ、非常に賢い人だったといわれています。あるとき家康が家来に、 「食物のうち、最もうまいものは何か。」 と聞きました。みんなが答えに困っているとき、局はすぐさま、 「塩でございます。」 と答えました。ついで家康が、 「最もまずいのは何か。」 と聞くと、局は、 「やはり塩でございます。」 と答えたので、一同はその賢さに関心したと伝えられています。 英勝寺の裏山には立派な代々の住職の墓地があり、寺の北側の道ばたには、十六夜日記で有名な阿仏尼の墓といわれているのがあります。 |
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