扇ヶ谷源氏山佐助エリア 順路 岩船地蔵堂

浄光明寺

(じょうこうみょうじ)


真言宗泉涌寺派   準別格本山 浄光明寺     創建  建長三年(1252年)    

開山  真阿(真聖国師)    本尊   阿弥陀三尊 


かまくら子ども風土記(上巻)P151〜P152
  浄光明寺  
    英勝寺の前の踏切を越えると、山之内上杉氏と並び盛んであった扇ガ谷上杉氏の屋敷跡があり、そのあたりは管領屋敷といわれています。その屋敷跡の奥の丁字路を右に曲がって行くと泉ガ谷です。この谷を百メートルぐらい入って左側にある寺が、真言宗の浄光明寺です。
  もとは文覚上人が頼朝の願いによって建てられたといわれ、その後、執権の北条長時が浄光明寺という寺にしました。国の重要文化財になっている本尊の阿弥陀三尊像や、鎌倉では古い建物といわれる阿弥陀堂があります。
この寺の不動堂には八坂不動明王がまつられています。これは、昔、京都の東山
、八坂の五重塔が皇居の方に向いて傾いたとき、八坂寺にいた浄蔵貴所という坊さんが、法力によってこれを元にもどしたことがあります。そのとき祈ったのがこの仏で、それから八坂不動明王と唱えるようになったといわれます。その後、この像は高雄山にまつられていましたが文覚上人が後白河法皇の息子以仁王の平家追討の令旨をこの仏像の中に隠し、関東に出て伊豆に流されていた頼朝に仏像とともに渡したと言い伝えられています。
 
         
   かまくら子ども風土記(上巻)P152〜P153  
  矢拾地蔵と網引地蔵  
    浄光明寺の宝物殿にある矢拾地蔵は足利直義の守り本尊といい、なかなかよい作です。ある戦いのとき、直義が矢がなくなって困っていたところ、小僧がひとり走ってきて矢を拾い集めて、直義に差し出したことがありました。不思議に思って地蔵を見ますと、矢を一本、錫杖とともに持っていたといいます。現在その錫杖が矢の形をしてるのが特徴だといわれています。
  この寺の後ろの山には柵があって入れませんが、やぐらにすわった石のお地蔵があります。昔、由比ガ浜で漁夫が引いていた網にかかってあがってきたので、網引地蔵と名づけ、ここに安置したといわれています。
  網引地蔵の少し上に石垣で囲まれた冷泉相の墓があります。大きくはありませんが、りっぱな宝篋印塔で、国の史跡に指定されています。為相は歌人で有名な藤原定家の孫で、父為家が死んだ後、執権北条時宗にこれを訴えようと鎌倉に来ました。そのときの紀行文が有名な「十六夜日記」です。その原稿がこの寺に残されてあったといわれますが、今はないそうです。
  冷泉為相の墓の東方の谷間にある多宝寺跡に、立ち入りはできませんが覚賢塔といわれる国の重要文化財に指定された大きな五輪塔があります。これは、鎌倉の古い石塔の中でも珍しく大きなもので、前は、極楽寺を開いた忍性菩薩の墓と伝えられていましたが、多宝塔の長者覚賢という僧の墓であることがわかりました。
 
         
  泉の井   
         

(C) Copyright Ricky Aoyagi 1998-2009. All Right Reserved.