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荏柄天神社
(えがらてんじんしゃ)

かまくら子ども風土記(上巻) 鎌倉宮あたりP50〜P51
  荏柄天神   
     岐れ道から鎌倉宮(大塔宮)に向かって進むと、途中を参道が横切っており、これを左に行くと荏柄天神です。日本三天神の一つといわれ、江戸時代までは神仏いっしょで、荏柄山という山号をもち、十一面観音もまつっていました。明治からは荏柄天神社となり、菅原道真をまつっています。
  平安時代の長治元年(1104年)八月二十五日、空が急に曇り、雷がなり、雨がすさまじい勢いで降ってきましたが、その時一幅の天神像をかいた巻物が荏畑の中へ降りました。このことを堀河天皇に申し上げ、ここに神社を建てました。里人はこの土地を踏むことを恐れ、いちょうの木を神木と仰ぎました。今の境内にそびえるいちょうがそれだといわれ、鶴岡八幡宮に次ぐ大きな木です。頼朝が幕府をこの地に開いたとき、この社を鬼門の方角とを守る神として大変あがめました。社前の梅並木のある参道は、馬場ともいい、頼朝がこの地で馬くらべをやり、昭和の初めにはこれにちなんで流鏑馬をやったものです。荏柄の地名は、今この社付近の一部にすぎませんが昔は、荏草郷というふるい地名がありました。
  建仁二年(1202年)九月十一日、将軍頼朝は、道真の三百年祭を、大江広元を使として盛大に行いました。また、天正十八年(1590年)豊臣秀吉は小田原の北条氏を下して、小田原城にはいり、鎌倉にも来てこの天神を参拝し、家康に命じて社殿の営造をさせたともいわれています。徳川幕府代々の将軍もこれをあがめ、鶴岡八幡宮造営の余った材木でたびたび修理し、社領十九貫二百文を寄進しました。その後、明治時代には本殿だけになってしまいましたが、昭和になって修理して現在のようになりました。
 昭和三十一年(1956年)十月二十五日には御鎮座八百五十年祭がおこなわれました。
 
         
     
  樹齢900年大銀杏  

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