大蔵稲荷
鎌倉の一般書にあまり記述のない、この稲荷
「吾妻鏡」に、弘長元年(1261年)5月に
「真夜中。大倉稲荷の辺り、いささか物あわただしい。
彼の社壇。先頃絶え間なく寄り集まる輩有り。
今日の夜、夜行衆これをあやしむ。
押さえつけ捕らえようと欲す。
ことごとく逃し散らしてしまった。」
とある。(ricky解釈)
原文、弘長元年(1261)五月小一日壬戌。夜半。大倉稻荷邊聊物忩。
彼社壇。此間連々有會合之輩。今夜々行衆恠之。欲搦取之故也。悉迯散云々。
「吾妻鏡」に記述ある大倉稲荷社は、小町・西御門・浄明寺・十二所と諸説あるらしく
いずれの説も確定できていないという
永い歴史の変遷のなかでは、この大蔵稲荷とあまり結び付けて考えないほうがよいだろう
後世、稲荷信仰が、この地ゆかりの名を冠して、地主神として奉られたとも充分考えられる
しかし歴史ある鎌倉で、あまり記述もされず、また ricky「鎌倉ナビ」でも紹介されなかった
この稲荷、なぜか資料が乏しい
取材写真を見ていただければ解るとおり
なにかを主張している鳥居にみえる
「吾妻鏡」の大倉稲荷とこの大蔵稲荷
接点はあるのか、探ってみたくなった
【密なる大倉稲荷】
金沢街道から南側の横道を入ると、家並みの先に、橋と鳥居が見えてくる
滑川に架かる大蔵稲荷橋を渡り、鳥居をくぐると
石仏や二の鳥居、杉木立が目に入った
二の鳥居付近で足を止める、梅の花がひっそりと咲いていた
苦手な気配がするところだ
鎌の柄から刃先へ向かうような急坂を登りつめると
目の前に三の鳥居、そして大蔵稲荷と掲げた覆堂にたどり着く
大蔵稲荷は、この覆堂の中に安置されている
周囲は余地もなく、堂裏に回り込むと岩壁となっていて、背丈くらいの「やぐら」が一つあった
一巡りしてお堂の前へ、ここからは展望はきかないが、大倉幕府跡の南にあたる位置とみた
であれば
この稲荷の北に大倉幕府の東御門・西御門が設けられ
背後の大倉山の南側中腹には「頼朝の墓」があるはず
ふと、あることが頭をよぎった・・・
今、頼朝の墓前にいる。ここへは、金沢街道を北側に入り桜並木を直進
突き当たりが「頼朝の墓」の入り口となっている
左手に白旗神社があり
その前の急な階段を上りきった丘に墓はある
頼朝は
「正治元年(1199)に53歳で没すると、自身の自仏堂であった
法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰され
法華堂は後に廃絶したが、この丘の上一帯がその跡で
現在建っている塔は、
後に島津藩主、島津重豪が整備したものとされています」
鎌倉市と説明書きがあった
墓参を済ませ、後ろを振り返ると
小高い山が正面に、右には杉木立も見え祇園山へと続く、そしてはるか左後方へは衣張山へ
あの正面に見える小高い山に大蔵稲荷は奉られている
思った通りの光景があった
そして次に気付いたことは
大蔵稲荷は「頼朝の墓」と略同じ高さに位置することだ
「頼朝の墓」は、四六時中、大蔵稲荷を見ていることになる
「頼朝の墓」を中心に
真北には、八雲神社・来迎寺(西御門)
西には、鶴岡八幡宮・白旗神社
東は、荏柄天神社(大倉幕府鬼門鎮護)
南は、と云うと、勝長寿院跡
勝長寿院は、頼朝が父義朝を弔うために建立したものであるから
よしとしても、大倉稲荷を背面より崇拝するということは考えにくい
また、鎮護としての役割も薄いと思われる
そこでもう一度大蔵稲荷の前に立ってみる
稲荷社の後には岩壁があり行き止まる。そして「やぐら」がある
川の彼岸はるか向こう正面に「頼朝の墓」があるのだが
ここでは岩壁が屏風のようになっていて「頼朝の墓」を知る由もない
だが
このような場所(岩壁・屏風の前)で、「頼朝の墓」を筆者と同じくイメージする者が
いたとすればどのような人達なのか・・・・
位置も高さも同じ、この屏風の前の社壇で参拝したとなれば
頼朝の墓前で墓参した事と同じになる
「頼朝の墓」に
何らかの理由により墓参が叶わない
山側の方から川を渡ることができない
墓参することがゆるされない
墓参を知られては困る
など・・・・
訳ある人達ではないか
「やぐら」と稲荷を地主神として信仰していると云えば
また、信奉者が多ければ多いほど
その目的は達し易い
岩壁を屏風とみたて「やぐら」を利用し
人知れず屏風越しに密に目的を果たしていたとすれば・・・・
調べが進むと、意外や
「頼朝の墓」の真正面に見えた小高い山は
なんと
屏風山と言われている
屏風山の
言い伝は、宝戒寺の方から裏山を見ると
山姿が屏風のように見えるから・・・・・
果たしてそうなのか・・・・
屏風と見立てた「やぐら」は宝戒寺開山、建武二年(1335年)より以前から
存在しているうえに
この「やぐら」と稲荷が、その宝戒寺(執権北条氏の屋敷跡)の
真裏(裏山)に位置している
訳ある人達の間では
屏風山という言葉は、あの岩壁(場所)を意味する
隠語となっていたのでは・・・・・
屏風山と全体を呼称することで
相手の目を欺いていたのではないか
これらが接点となるのなら
もう一度大蔵稲荷に行き確認しなければならない
岩壁で閉ざされ、狭くてこれ以上の造作は無いと思い込んでしまった
せいか岩壁脇より、唯一山に入るルートがあるのを見逃していた
どこへ向かうのだろう、なかなか険しい
しばらく行くと見慣れた峰に出た、今に言う、祇園山ハイキングコースだ
峰伝いに歩く通常、八雲神社までのコース
またしても
あることが頭をよぎった
このコースの途中、妙本寺へ下る道が・・・・
妙本寺には、祖師堂の前に「比企一族の墓」がある
妙本寺は
もともと比企能員(ひきよしかず)の屋敷
北条時政に敗れた父比企能員をはじめ比企一族の菩提のために
比企能本(ひきよしもと)が建立した
比企能本は
末っ子で二歳の幼子であったがため、比企の変をのがれ
成人して学者となり、順徳天皇に使えて比企大学三郎能本を名乗った
藤原頼経将軍により、竹御所(源よし子)のゆかりのものとして
ゆるされ鎌倉に戻り、日蓮聖人に帰依し弟子となっている
頼朝と関係の深い 「比企一族」は妙本寺祖師堂前で静かに眠っている
比企一族に関係あるもの
恩あるもので生き延びたものは思いの他いたはず
「比企一族の墓」を守り
将軍頼朝を参ることが一族の供養にもなると
そのもの達が思ったとしたら・・・・・
妙本寺祖師堂の裏山を登ると峰に出る
ここを北に折れて峰伝いに行けば
岩壁の屏風、「やぐら」社壇に通じる
時は、北条一族の世となっている
大倉幕府付近、川を渡ることも近寄ることもできない
若宮大路、小町大路など歩くこともできない
頼朝の墓参なぞ、とても困難だろう
妙本寺方面から人知れずたどり着くことができたのだ
「吾妻鏡」を 再び読み直してみよう
「真夜中。大倉稲荷の辺り、いささか物あわただしい。
彼の社壇。先頃絶え間なく寄り集まる輩有り。
今日の夜、夜行衆これをあやしむ。
押さえつけ捕らえようと欲す。
ことごとく逃し散らしてしまった。」
とある。(ricky解釈)
墓参を願うものはかなりいたと思われる
その都度、何人かで訪れたと考える
社壇のふもとの地点から夜行の衆が発見し追ってきたとしても
峰伝いに逃げることができた
頼朝に仕え、北条に阻まれたもの
それら輩が
訳ある人達ではなかったのか
屏風の意味を知るもの、密なる大倉稲荷
今でも
この地にその密なる事は伝承されているかのように
朱色の立派な鳥居が稲荷信仰で、それを主張しているように思えてならない
2009年3月24日 新説 「大倉稲荷」 ricky
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追記
大蔵稲荷の管理信仰されている方への取材により
大蔵稲荷は、私有地、私有稲荷社であることが判る
また、この大蔵稲荷が「吾妻鏡」に記述されている
大倉稲荷と仰っています。
また、記述文中の私有地にあたる部分の
立ち入りは、お許しを得ております
「吾妻鏡」は、編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述ですが
その他の所蔵本と對校し公刊された新訂増補国史大系「吾妻鏡」の原文にて解釈
大蔵稲荷ついては、書籍ほか、下記に問い合わせさせていただきました
鎌倉市
鶴岡八幡宮
宝戒寺
鵠沼伏見稲荷
神奈川県神社庁
鶴岡文庫
大蔵稲荷管理信仰者様
この頁のすべての記述につきましては
上記、問い合わせ先様とは一切関係無く、 取材による ricky説です
歴史の裏付けのとれない鎌倉遊びの一つとして
今後も考察を続け加筆したいと思っています。
取材写真
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大蔵稲荷橋 |
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石仏・庚申塚 |
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杉木立と二の鳥居 |
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途中下を見る 梅の花 |
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大蔵稲荷覆堂と三の鳥居 |
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堂裏 岩壁(屏風)と「やぐら」 |
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社壇脇より山ルート |
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写真中央 大倉山中腹に頼朝の墓 |
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源頼朝の墓正面 |
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法華堂跡に建つ 頼朝の墓 左側面 |
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墓前を背にした光景 屏風山が見える |
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墓背面からの拡大 屏風山の稲荷位置と杉木立 |
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真後ろから見た屏風山方面 |
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勝長寿院跡 源義朝主従の供養等 |
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妙本寺祖師堂この裏山から社壇に通じる |
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比企能員公一族 四基の五輪塔 左 能本公石塔 |
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源頼家卿嫡男一幡君御廟所 |
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源頼家卿嫡男一幡君袖塚 |
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蛇苦止堂 若狭の局(竹御所の母)池に身を投じる |
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新釈迦堂の地にある竹御所(源よし子)の墓 |
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