建長寺エリア | 順路 震災記念塔 |
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柏槙 | ||
かまくら子ども風土記(中巻) P11〜P13 | ||
七百年もたった柏槇 | ||
三(山)門と仏殿の間には、大きな柏槇の木がならんでいます。一名舎利樹ともいい、大覚禅師が種を宋から持ってきて植えたと伝えられています。古い柏槇の姿は中国の禅宗の庭園のようすをしのばせ、七百年の昔を物語っているようです。 現存している仏殿は、寛永年間(1624年〜1643年)に増上寺に建てた徳川秀忠婦人の御霊屋の拝殿を正保四年(1647年)に沢庵和尚の努力でもらいうけ、移転したもので、これも国の重要文化財に指定されています。仏殿には応行作と伝えられる丈六の本尊の地蔵や千体地蔵などが安置されています。また、仏殿には鎌倉時代にできた北条時頼の木像がありました。今は国宝館に陳列されていますが、とてもりっぱなもので、狩衣、差貫をつけた、鎌倉時代の武将の服装がよくうかがわれ、国の重要文化財です。 以前、仏殿本尊の体内に一体の地蔵が安置されていましたが、それにはこんな伝説があります。 昔、斎田佐衛門という人が無実の罪で切られようとしたとき、何度切ろうと思っても刀が折れて切ることができません。そこで不思議に思ってそのわけをたずねてみました。するとその人は、 「私はいつも地蔵を信仰して身から離したことがありません。今でも、髪の中に納めております。そのご利益によるものです。」 と答えました。そこで調べてみると、確かにその像が出てきて、いくつかの刀の傷跡がありました。 みなは大変驚いて、斎田を切るのをやめたということです。斎田という人は、許されて後、地蔵に感謝し、その像をこの地以前にあった心平寺のお地蔵さまの頭の中に納めました。この小さなお地蔵さまを斎田地蔵というようになったと言い伝えられています。その後、建長寺を建てるときに仏像の本尊の体内に移したそうですが、現在は仏殿の中で別に安置されています。法堂は文化十一年(1814年)に造られたもので、明の竹西筆の「天下禅林」の額を掲げ、千手観音をまつっています。唐門も仏殿と同じく増上寺から移したといわれています。 寺宝としては、国宝にしていされている蘭渓道隆像(絵画)、梵鐘、大覚禅師墨蹟をはじめ、数多くの文化財がありますが、毎年十一月初めの風入れで一般にも公開されます。 歴代の住持のなかには名僧が多く、一世蘭渓道隆・二世兀庵普寧・五世無学祖元などは、博学をもって当時の武士を指導しながら学問を研究し、室町時代には五山文学といわれる詩文も盛んになりました。 |