鎌倉名数史跡

HOME
鎌倉十井
水の悪かった鎌倉の井戸の中でも,最も美味しく、また伝説が伝わる十の井戸をいいます。
鎌倉が観光地化した江戸時代に定められたようです。、現在水の飲める井戸もないようです。
星ノ井 昼間でも水面に星が映って見えた。別名星ノ井、星月夜ノ井 虚空蔵堂
鉄ノ井 この井戸から新清水寺の鉄の観音像が発掘された。 小町通り鶴岡八幡宮付近
甘露ノ井 水がきれいで甘露であった。 浄智寺門前
底脱ノ井 尼さんが桶で水を汲んだとき底が抜けてしまった。 海蔵寺門前
泉ノ井 井戸の名から泉ヶ谷の地名がつく。 浄光明寺付近
瓶ノ井 現在も打水に使用、別名甕ノ井(かめのい)。 明月院
銚子ノ井 蓋をとると長柄の銚子のように見えた。別名、石ノ井 長勝寺付近
六角ノ井 伊豆大島から源為朝が天照山めがけて放った矢がこの井戸に落ちた。(矢ノ根ノ井) 和賀江嶋付近
扇ノ井 扇形をしている。静御前が舞扇を納めたともいわれる。 岩船地蔵付近民家内非公開
棟立ノ井 家屋の棟立のような形をしていた。別名破風ノ井(はふのい) 覚園寺内非公開
鎌倉十橋
歌ノ橋 歌を詠んで謀反の罪を許された渋川兼守が報賽(ほうさい)のために架けた。 金沢街道、二階堂川と滑川が合流する付近。
勝ノ橋 徳川家康の側室お勝の方が架けたといわれる。 鎌倉五山第三位壽福寺の門前に石碑がある。
逆川橋 山から海へ流れる川が逆に流れて見えたので。 大町四ツ角付近。
筋違橋 道筋に対して斜めに架けられた橋だったため。 横浜国大付属小前交差点付近。
裁許橋 門注所の付近にあった。また西行が頼朝に名前を尋ねられた地(西行橋)。 御成小学校の南佐助川に架かる。
乱橋 新田軍追われた北条勢がこの辺りから乱れた。 材木座妙長寺付近。
十王堂橋 薬師堂と閻魔大王や十王を祀ったお堂があった。 北鎌倉駅付近(大船方面へ)。
針磨橋 針を磨る鍛冶屋が多かった。 極楽寺駅から稲村ヶ先に向かう途中。
夷堂橋 日蓮が佐渡から鎌倉に入った夷堂付近。 本覚寺夷堂付近に架かる。
琵琶橋 一ノ鳥居と二ノ鳥居間を琵琶小路と称していた。 若宮大路、下馬四ツ角に架かる。
鎌倉七口(切通し)
巨福呂坂切通し 北条泰時が1242年造らせた。 鶴岡八幡宮裏参道から建長寺方面へ。
化粧坂切通し 平家の大将の首を化粧して首実検したこと。また、この付近に遊女が住んでいたことから付いたとも言われる。新田義貞軍の鎌倉入の行く手を阻んだ古戦場ともなった。 扇ヶ谷から源氏山、銭洗弁財天方面へ。
名越切通し 名越切通しは、三浦半島衣笠城へ通じる唯一の陸路。幕府は、三浦一族から防衛するための拠点とした。 鎌倉から逗子方面へ。
朝夷(比)奈切通し 六浦からの塩街道、朝比奈三郎義秀が一夜で貫通。 金沢街道南側。
亀ヶ谷坂切通し 長寿寺から岩船地蔵まで、亀が頂上まで登れず「亀返り坂」。 長寿寺から岩船地蔵
大仏坂切通し 鎌倉の防衛の重要拠点、梶原・山崎・藤沢ヘ通じる。
極楽寺坂切通し 鎌倉から京都方面へ向かう主要道路。 鎌倉・稲村・腰越・片瀬を結ぶ。
鎌倉五山
建長寺 鎌倉五山第一位   臨済宗建長寺派の総本山、北条時頼が建立。
円覚寺 鎌倉五山第二位   北条時宗が元冦の戦没者を弔らうために創設
壽福寺 鎌倉五山第三位   北条政子が頼朝を供養するために建てた。
浄智寺 鎌倉五山第四位   北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため妻とそ                         の子師時が建立。
浄妙寺 鎌倉五山第五位    足利義兼が父、義康を弔うために建立した。
鎌倉尼五山
大平寺跡 尼五山の筆頭で、西御門の来迎寺門前に碑がある。
東慶寺 縁切り寺として有名。
国恩寺 廃寺
護法寺 廃寺
禅明寺 廃寺
鎌倉五名水
甘露水 鎌倉十井の甘露の井から湧き出る水。 浄智寺門前
銭洗水 銭洗弁財天社内に湧き出る。銭をこの水で洗うと福銭になると。 銭洗弁財天宇賀福神社
日蓮乞水 日蓮が杖で地を突くと湧き出たといわれる水。
梶原太刀洗水 梶原景時が上総之介広常を討った後、刀を洗ったといわれる水。
金龍水 現存しない。
鎌倉四大古鐘
円覚寺洪鐘 北条貞時の命で物部国光が製作し国宝にしていされている
長谷寺梵鐘 文永元年(1264年)に物部季重がてがけ、現在は境内の宝物館に展示されている。
常楽寺梵鐘 鎌倉最古の梵鐘。鎌倉国宝館に寄託されている。
建長寺梵鐘 建長七年(1255年)開基北条時頼の発願で大和権守物部重光が鋳造した。

前へ 戻る

(C) Copyright Ricky Aoyagi 1998-2009. All Right Reserved.