大船東エリア

成福寺
(きっこうさん ほうとくいん じょうふくじ)

浄土真宗  亀甲山法得院成福寺   創建 貞永元年(1232年)  開山 成仏

  本尊  阿弥陀如来

かまくら子ども風土記(中巻)P39〜P42
   水堰橋(すいせきはし)から北に向かって横須賀線を渡ると、山号を亀甲山という成福寺があります。昔は天台宗でしたが、今は鎌倉に一つしかない浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺です。
   親鸞上人旧蹟の石碑を左に見て山門を入ると、正面の一段高くなったところに本堂が建っています。大正十二年(1923年)の関東大震災の時に、元禄時代にできた茅ぶきの大きな本堂がつぶれたため最近、立派に再建されました。山門は四足門といって、江戸時代の初めごろからありますが、もとは山崎の館跡にあったものだそうです。
 昔、山崎に宗高院という領主が住んでいました。土地の人の話によると奥平一族の女の人ということです。この人がこの寺で教えを受けたとき、屏風などの宝物と一緒に自分の家の門を寄付してここに建てたのだと伝えられています。
 
  この寺を開いたのは成仏というお坊さんです。この人は寺の伝えでは執権北条泰時の末子で幼名を泰次といったそうです。子どものころから仏教を学び、坊さんになって沙門院泰次入道といい裏山の「亀の窟」という岩屋で修行していました。そのころ、父の泰時が国中から名高いお坊さんを招いて、八幡宮で仏教のいろいろな教えを説いた一切経の校合(きょうごう・解釈や字句の統一)を行いました。このお坊さんたちの中には浄土宗の教えをといていた親鸞上人もいました。泰次入道はさっそく上人に会って教えを受けました。上人も戸塚の宿(下倉田永勝寺に泊まっていたといわれます。)
から八幡宮に通う途中毎日立ち寄りました。そして弟子となった入道は成仏という名をもらい、寺を浄土真宗に改宗しました。ときに貞永元年(1232年)九月でした。このとき新たにお堂を建てて、上人から与えられた聖徳太子の木像を安置したそうです。これは今も本阿弥陀如来像の右の余の間(隣りの部屋)に置かれています。
  その後この寺は二度ほど大きな災難にあっています。初めは新田義貞が鎌倉に攻め入って北条氏が滅んだときです。そのときのお坊さんが四代目の円成で北条高時の末の弟でしたので、ここから負われてしまい、室町時代に再び建てられるまで七十余年の間は無住職だったということです。
 二度目は戦国時代の終わりごろで、小田原城にいた北条氏が真宗を迫害したときでした。このときはもう九代目でしたが焼き討ちにあったのです。お坊さんの宗全法師は伊豆の北条に落ちのび、そこに同じ成福寺という寺を建てました。その後江戸時代になって世の中が落ち着き、慶長十七年(1612年)再びここにもどってくるまでそこに住んでいました。今でもその寺は浄土真宗大谷派の末寺となって残っています。また、伊豆の戸田にある宝徳寺には成福寺関係の古文書が残されているそうです。
冬桜(11月〜)
 庫裏には鎌倉には珍しい虚空蔵菩薩の木像があります。高さは一メートルぐらいの鈍い金色の坐像で、室町時代のころのものといわれています。昔は門前を通る鎌倉街道にあったお堂に置かれてありました。この像のお腹の中には昔の人が、供養やお祈りのために納めた仏像や子犬の彫りものなどが入っているという話です。本堂には親鸞・蓮如上人の画像もかけられています。
 ところで、この寺は明治時代には村役場になっていて、本堂の一部をそれに使い、村会や郡会の議場も兼ねていました。ですからこのあたりの村役場の発祥の地という
ことができます。
 今はありませんが、昔は成福寺の山門を入った左に西敬寺がありました。成福寺の支院ですからやはり浄土真宗本願寺派でした。江戸時代の元禄年間(1688年-1704年)に建てられ、その後文化八年(1811年)住職が本山に行く途中京都でなくなってからしばらく無住職でしたが、やがて廃寺となりました。今は寺の人の墓が裏山に残っています。本尊は阿弥陀如来で、廃寺になってからは成福寺の内仏として、本堂に安置されています。

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