市街中心部 大町 材木座エリア 順路 上行寺

安養院
(あんよういん)

浄土宗   祇園山安養院田代寺   創建  嘉禄元年  開山  良弁尊観 

本尊  阿弥陀如来

かまくら子ども風土記(上巻)P124〜P126
   昇竜観音と安養院  
    別願寺の東側のすぐ左手に安養院が見えます。安養院本堂の正面には、約1.58メートルの木像千手観音が安置されており、別に宝塔の中の本尊は、印度の竜樹菩薩が自らかいた画像だといわれています。
  源頼朝は、伊豆に兵をあげてから京に攻め上るまでには、幾度も危機にあいました。そのころ頼朝に味方していた田代冠者信綱は、石橋山の合戦に敗れたので、しとどの岩屋という中に隠れて、頼朝主従とともに難をのがれたことは有名な話です。その後、信綱は木曽義仲追討のときに義経に加わり、一の谷の合戦には、七千余騎を率いて攻め入り、非常なてがらをたてました。このてがらをたてることができたのは、日ごろ信仰する千手観音のおかげだと深く信じていました。そのため、信綱は戦陣に向かう
ときには、いつもこの観音の像を身につけていたといわれています。
  この千手観音は、寛和二年(986年)、「然という坊さんが宋へ渡って持ち帰ったものであると伝えられています。この観音の像は、「然の帰国後数代の間は宮中におかれ、天皇をはじめ宮中の人々に信仰されました。後三条天皇は、これを第三皇子の輔仁親王に与え、輔仁親王は子どもの花園左大臣有仁に譲り、さらにその子伊豆国司中納言為綱卿に譲られ、最後にその子の田代冠者信綱の手に渡ったと言い伝えられています。
  信綱はこのありがたい観音の像をどうしようか考え、この観音のご利益に感謝している尼将軍政子に相談し、鎌倉に田代寺を建てて安置することにしたということです。この寺はもと妙本寺のそばにあったのですが、その寺がなくなったので安養院にまつられるようになりました。
  政子がこの観音に祈って頼朝と縁を結ばれたり、頼朝が天下をとったことから、この千手観音を昇竜観音といい(また良縁観音ともいう。)昔から出世を望む人々や、あるいは、よい縁談を求める人たちから厚く信仰されていました。この寺は浄土宗で京都知恩院の末寺でした。寺には本尊として阿弥陀の像もまつってあります。寺に政子の像と墓地にその供養塔があり、そばには国の重要文化財に指定されている、徳治三年(1308年)の銘のあるりっぱな宝篋印塔があり、開山尊観の墓といわれています。
 
         

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