円覚寺エリア 順路 白鷺池

円覚寺

(ずいろくさん えんがくこうしょうぜんじ)

鎌倉五山第二位

臨済宗    瑞鹿山 円覚興聖禅寺   創建  弘安五年(1282年)    開山  無学祖元(仏光国師)
本尊 宝冠釈迦如来 


総門
かまくら子ども風土記(中巻)P25〜P26
時宗と円覚寺
   鎌倉駅から電車が北鎌倉に入る少し手前にあります。横須賀線が開通し北鎌倉駅の前には県道も通っています。これはすべて円覚寺の境内に造られたので、県道の南と北にもとは黒い門がありました。昔の道は現在の道の西側を回り道して、今の駐在所の前で大通りに出るようになっていました。両方の門を北門・南門といって、この門内は大名でも馬やかごから降りて歩かねばなりませんでした。この円覚寺は、山号を瑞鹿山といい、建長寺につぐ鎌倉五山の第二位で、臨済宗円覚寺派の本山にあたる大きな寺です。弘安五年(1282年)十二月八日、北条時宗が元との戦い(文永・弘安の役)で戦死した敵味方の霊を慰めるため、宋の国から呼んだ仏光国師(無学祖元)という偉い坊さんといっしょに建てた寺です。寺の名まえについては、こんな話があります。
  弘安元年(1278年)に北条時宗は蘭渓道隆を開山として寺を建てようとして、土地を捜していました。今の円覚寺の場所で、道隆が「ここがいいでしょう」と言うので、その地に鋤を入れて掘ったところ、中から石橋が出てきました。見るとその中に円覚経が収めてあったので、その名をとって寺名にしたということです。また山号については、仏光国師が、開堂の日ここで初めて人々に話をしていると、白い鹿が出て来て、たくさんの人々といっしょに説法を聞いたので、これはめでたいことだと、山号を瑞鹿山とつけたということです。仏日庵の上に白鹿洞があります。
  北条時宗は、弘安七年(1284年)四月四日に落髪して、法光寺道呆と称して、この日になくなりました。舎利殿のそばの、仏日庵の境内にあるのが北条時宗の廟所です。また、開山の無学祖元は弘安九年、建長寺方丈でなくなりました。六十一歳のときで、遺骨は建長寺の山の麓に葬り、正続庵といいましたが、のちに正続院と改め、建武二年(1335年)円覚寺に移しました。
   円覚寺の規模は、弘安六年(1283年)の史料によると、僧百人、行者・人工百人、その他六十八人、計二百六十八人寺用米は千三百七十四石七斗(年貢米収入は千五百六十九石八斗)、銭千七百四十五貫文(年貢銭収入は千五百七十五貫四百五十一文)でした。この他に亀山郷からは、大豆・薪・炭等が運ばれたようです。円覚寺はたびたび火災にあいましたが、その後鎌倉時代が終わるまで所領の寄進や僧院もふえて、その規模はますます大きくなりました。

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